できごと

ホホカムの運河

Hohokam canals
AD1000年頃
年に諸説あり重要度 3
北極圏の海獣狩猟民ドーセット文化北米東部の狩猟採集民亜寒帯林の狩猟採集民平原のバイソン狩猟民アサバスカ諸族チューレ文化高原の漁労・狩猟採集民北米太平洋岸の採集・狩猟・漁労民砂漠の狩猟採集民メソアメリカの都市国家と首長制社会カリブの狩猟採集民祖先プエブロタイノマヤの諸都市国家トルテカCaloosahatchee cultureureAD1000年頃スネークタウン(ホホカム)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1000年頃の版図を描いています(17勢力)。

概要

アリゾナの砂漠に、石の道具で1000キロの運河を掘った人々。トウモロコシ、豆、綿。球戯場。メキシコからの貝と鸚鵡。1450年頃、消えた。干魃か洪水か。フェニックスの運河は、その上に掘られた。「ホホカム」は「去った者たち」。

場所

スネークタウン(ホホカム)
33.18°N -111.92°E · アメリカ・アリゾナ州

本文

アメリカ南西部、アリゾナ州のソノラ砂漠は、夏には気温が45度を超え、年の雨は200ミリほどしか降らない。サワロの巨大なサボテンが立ち並ぶこの乾いた盆地を、ソルト川とヒラ川が横切っている。千年前、この二本の川から水を引き、砂漠に網の目のような運河を掘って、メキシコから伝わったトウモロコシ(トウモロコシの栽培化)と豆と綿を育てた人々がいた。考古学者は彼らをホホカムと呼ぶ。

ホホカムという名は、この土地に今も住む先住民オオダムの言葉から取られた。「使い果たされた者たち」「去った者たち」といった意味だと説明される。彼ら自身が何と名乗っていたかは分からない。ホホカムの文化が形を取ったのはおおむね紀元300年ごろからで、最も栄えたのは紀元1000年前後、そして1450年ごろまでに大きな集落は姿を消した。ただし、この土地で灌漑の農耕が始まった時期は、それよりずっと古いともいう。

ホホカム文化のトルコ石モザイク装身具
ホホカム文化のトルコ石モザイク装身具Wikimedia Commons National Parks Service, US depatament of the Interior · Public domain

ホホカムの運河は、先コロンブス期の北アメリカで最大の灌漑の仕組みだった。いまのフェニックスの盆地だけで、確かめられた運河の長さは数百キロ、一説に千キロを超える。鉄の道具も、荷を運ぶ家畜も無かった。人々は木の掘り棒と石の鍬で土を掘り、籠で土を運んだ。大きな幹線の運河は幅が十数メートル、深さが数メートルに及び、川から20キロ、30キロと離れた畑まで水を届けた。水が流れすぎて溝を削らず、少なすぎて淀まないよう、勾配はごくゆるやかに保たれた。分かれ目には水門を設け、水を順に畑へ回したと考えられている。それだけの水路を掘り、毎年の泥を浚い、水の配分を決めるには、多くの村が協力する仕組みが要ったはずである。

ヒラ川のほとりのスネークタウンは、ホホカムの代表的な村の跡である。1934年から35年にかけてハロルド・グラッドウィンとエミール・ハウリーらが、1964年から65年にかけてハウリーが再び発掘した。数百年にわたって人が住み続けた村で、地面を掘り下げて屋根をかけた家、赤い文様を黄褐色の地に描いた土器、そして楕円形の窪地が見つかった。この窪地は、メキシコの古い文明で行われたゴムの球を使う儀礼の球戯の競技場だと考えられている。ホホカムの土地には、こうした球戯場が200以上ある。ゴムの球そのものも、一つ見つかっている。

カサ・グランデ出土のホホカムの土器
カサ・グランデ出土のホホカムの土器Wikimedia Commons Wikipedia Loves Art participant " artifacts " · CC BY 2.5

ホホカムは、南のメソアメリカとつながっていた。カリフォルニア湾の貝で作った腕輪、メキシコ西部から来た銅の鈴、そして南の森にすむ赤いコンゴウインコの骨が、遺跡から出る。ホホカムの職人は、貝の表面に樹脂で模様を描き、発酵させたサボテンの汁のような酸で浸して、模様を浮き彫りにしたとされる。酸を使って模様を刻む技は、ヨーロッパより数百年早いとも言われる。

1150年ごろを境に、ホホカムの社会は姿を変える。球戯場は使われなくなり、代わりに、土を盛り上げた台の上に建物を載せた壇丘が造られた。限られた人々が台の上に住み、水と儀礼を取り仕切ったと考えられている。14世紀には、日干しの土で4階分の高さの建物も造られた。いまカサ・グランデ遺跡として残るものである。

だが14世紀の後半から、人の数は減っていった。1450年ごろまでに、大きな集落も運河もほとんどが捨てられた。原因はよく分かっていない。13世紀の終わりの長い干魃、14世紀に川があふれて運河の取水口を壊した大洪水、何百年も水を引いた畑に塩がたまったこと、病気、社会の内側の争い。いくつもの説があり、それらが重なったとみる研究者が多い。同じころ、北の祖先プエブロの人々も大きな集落を離れており(チャコ・キャニオンの大集落)、東ではカホキアの放棄が起きていた。北アメリカの各地で、大きな社会が小さく散る時代だった。

コロンブスの到達から半世紀ほどのち、16世紀にスペイン人がやって来たとき、この盆地には、運河の跡と崩れた土の建物と、小さな村で暮らすオオダムの人々がいた。オオダムは、自分たちこそホホカムの子孫だと考えている。去ったのではなく、暮らし方を変えて残ったのだという。

1867年、ジャック・スウィリングという入植者が、ソルト川のほとりで古い運河の跡を掘り返し、水を通して畑を開いた。ここに生まれた町は、古い文明の灰から蘇るという意味を込めて、フェニックスと名づけられたと伝えられる。1911年には上流にルーズヴェルト・ダムが完成し、運河の網は大きく広がった。いまのフェニックスの運河の一部は、ホホカムの運河とほとんど同じ線をたどっている。勾配を読んで水を流す道は、千年たっても同じだったのである。ホホカムの大きな村の跡に建つ博物館は、2023年、オオダムの言葉による名に改められた。「去った者たち」の跡は、子孫の言葉で呼ばれることになった。

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