できごと

ハーバー・ボッシュ法

Haber–Bosch process
AD1913年
重要度 5
ハーバー・ボッシュ法に関わる図版:Fritz Haber
Fritz Haber Wikimedia Commons The Nobel Foundation · Public domain

概要

空気の窒素を肥料に変える工場が動いた。土地が養える人の数が、この日から別の桁になる。いまの人口の半分は、この方法で作った窒素でできている。

場所

ルートヴィヒスハーフェン
49.48°N 8.44°E · ドイツ・ラインラント=プファルツ州

関わった人(1)

フリッツ・ハーバーAD1868年12月9日–AD1934年1月29日 · 方法を見つけた

本文

空気のおよそ8割は窒素でできている。窒素は植物が育つのに欠かせない元素で、タンパク質にも遺伝子にも含まれる。だが空気中の窒素は二つの原子が固く結びついた形をしていて、ほとんどの植物はそれを直接使えない。使える形の窒素は、雷が空気を焼いてできるわずかな量と、マメ科の植物の根に住む細菌が作るもの、そして動物の糞や死骸が分解されたものからしか得られなかった。農業の収穫量の上限は、長いあいだ、土の中の窒素の量で決まっていた。

19世紀、ヨーロッパの農業は遠い南米の資源に頼るようになった。ペルーの島々に積もった海鳥の糞の堆積(グアノ)と、チリの砂漠で掘られる硝石である。硝石は肥料になるだけでなく、火薬の原料にもなった。1898年、イギリスの化学者ウィリアム・クルックスは、このまま人口が増えれば硝石はやがて尽き、世界は小麦の不足で飢えるだろう、と演説した。救うのは化学者だ、空気の窒素を固定する方法を見つけなければならない、と。

ベルリンのユダヤ博物館に展示されている、1909年にフリッツ・ハーバーがアンモニアを合成するために使用した実験装置
ベルリンのユダヤ博物館に展示されている、1909年にフリッツ・ハーバーがアンモニアを合成するために使用した実験装置Wikimedia Commons JGvBerkel · Public domain

ドイツのカールスルーエ工科大学にいたフリッツ・ハーバーは、窒素と水素を直接反応させてアンモニアを作る研究に取り組んだ。反応は理論の上では起こるが、ふつうの条件ではほとんど進まない。温度を上げれば反応は速くなるが、できるアンモニアの割合は減る。ハーバーは、高い圧力と、反応を助ける触媒を組み合わせることで、この矛盾を解こうとした。1909年、彼は200気圧ほどの圧力と500度前後の温度、オスミウムの触媒を使った小さな装置で、アンモニアが連続して滴り落ちるのを化学会社BASFの技術者たちに見せた。

実験室の装置を工場の大きさにするのは、別の難題だった。BASFのカール・ボッシュがそれを引き受けた。高温高圧の水素は鋼の中に入り込んで鋼をもろくし、反応管を破裂させた。ボッシュは管を二重にする工夫でこれを解決し、巨大な高圧装置を設計した。高価で手に入りにくいオスミウムに代わる触媒は、同じ会社のミタッシュが数千回の試験を重ねて、安い鉄を主にした触媒を見つけた。1913年、ルートヴィヒスハーフェンの隣のオッパウで、最初の工場が動き出した。

翌1914年、第一次世界大戦が始まった。イギリス海軍がドイツを海上封鎖し、チリの硝石は届かなくなった。アンモニアは硝酸に変えることができ、硝酸は火薬と爆薬の原料になる。ハーバー・ボッシュ法がなければ、ドイツの火薬は1915年のうちに尽きていたとする見方もある。1917年には、空襲の届かない中部ドイツのロイナにさらに大きな工場が作られた。肥料のための方法が、まず戦争を長引かせるために使われた。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

ハーバー自身は、愛国者として戦争に深く関わった。彼は毒ガスの開発を指揮し、1915年4月のイーペルの毒ガスでは塩素ガスの放出を前線で指導した。同じ化学者だった妻クララは、その直後に自ら命を絶っている。夫の仕事に抗議したためと語られることが多いが、理由をはっきり示す記録は残っていない。戦後の1919年、ハーバーはアンモニアの合成によって1918年度のノーベル化学賞を受けたが、戦争犯罪人だとして受賞に抗議する科学者もいた。ボッシュも高圧化学の業績で1931年にノーベル化学賞を受けた。ユダヤ系だったハーバーは、ナチスの政権のもとで研究所を追われ、1934年に亡命先のスイスで死んだ。

戦争が終わると、アンモニアは本来の使い道である肥料に回った。20世紀の後半、合成肥料の使用量は爆発的に増え、高収量の品種と組み合わされて緑の革命を支えた。世界の人口は1900年の16億人ほどから、2000年には60億人を超えた。カナダの研究者ヴァーツラフ・スミルは、いま地球に生きる人のおよそ半分は、この方法で作られた窒素がなければ食べていけないと推計している。私たちの体に含まれる窒素の半分ほどは、どこかの工場を通ってきたものだ、という言い方もされる。

緑の革命に関わる図版:Index-of-cereal-production-yield-and-land-use World
緑の革命Wikimedia Commons Hannah Ritchie · CC BY 4.0

その代償も大きい。アンモニアを作るには大量のエネルギーと水素が要り、水素の多くは天然ガスから作られる。世界のエネルギー消費の数パーセントがこの工程に使われ、大量の二酸化炭素が出る。畑にまかれた窒素の多くは作物に吸われずに流れ出し、川や湖や沿岸の海で藻を異常に増やして、魚の住めない酸素の乏しい水域を作る。土から出る亜酸化窒素は、強い温室効果をもつガスでもある。

マット・リドレーの物語「『繁栄』で読む歴史」は、ハーバー・ボッシュ法を、人口が食料の限界に突き当たるというトマス・マルサスの予言を覆した最大の発明として位置づけた。限られた土地から養える人の数が、この発明で別の桁になった。それによって、森や草原をこれ以上畑に変えずにすんだ、ともリドレーは言う。同時に、川と海に流れ出した窒素が、いまの環境問題の一つになっていることも忘れることはできない。空気からパンを作った方法は、空気から火薬を作る方法でもあり、地球の窒素の循環そのものを人の手で変えた方法でもあった。

出典(1)

マット・リドレー(大田直子、鍛原多惠子、柴田裕之 訳) 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』第4章 九〇億人を養う

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