ジェームズ・ワット
概要
蒸気機関を実用の動力に変えた。人と家畜の力に頼らない生産が始まる。
関わったできごと(2)
産業革命1760年 · 蒸気機関を実用にしたワットの蒸気機関AD1769年 · 当人本文
1736年、スコットランド西部の港町グリーノックに生まれた。父は船大工で、船の道具や測量器具も扱う商人だった。体が弱く、学校にはあまり通えず、家で母から読み書きを習った。父の作業場で道具をいじり、模型を作るのが好きな子だった。

17歳で母を亡くし、父の商売も傾いた。ロンドンへ出て、1年間、天文や航海に使う測定器具を作る職人のもとで修業した。正規の徒弟を7年務めていないため、グラスゴーの職人組合は店を開くことを認めなかった。そこでグラスゴー大学が、構内に工房を持たせ、大学の器具を作り直す係として雇った。大学には、熱の研究をしていた化学者ジョゼフ・ブラックや、のちに『国富論』を書くアダム・スミスがいた。ワットの工房は、教授や学生が集まって話し込む場所になった。
1763年頃、大学が持っていたニューコメンの蒸気機関の模型を直すよう頼まれた。炭鉱の水をくみ上げるために使われていた機関で、シリンダーに蒸気を入れ、冷たい水をかけて蒸気を水に戻すと、中が真空に近くなって大気の力でピストンが押し下がる。模型はすぐに止まってしまった。調べると、ひと押しごとにシリンダーを冷やしては、また蒸気で温め直すことに、熱の大半が使われていた。

1765年の日曜日、グラスゴーの公園を散歩しているとき、答えを思いついたと本人は後に語っている。蒸気を冷やして水に戻す場所を、シリンダーとは別の容器にすればいい。シリンダーは熱いまま、別の容器は冷たいままにしておける。これが分離凝縮器で、燃やす石炭はニューコメン機関の4分の1ほどで済むようになった。
着想から実用化までは10年以上かかった。最初の出資者は破産し、ワットはその間、運河の測量をして暮らしを立てた。シリンダーを正確な円筒に削る技術が無く、隙間から蒸気が漏れた。解決したのは、大砲の砲身をくりぬく機械を作ったジョン・ウィルキンソンだった。

1774年、バーミンガムの工場主マシュー・ボールトンと組んだ。ボールトンは「世界中が欲しがるものを売っている。動力だ」と言ったと伝えられる。機関はまず鉱山の排水に使われた。二人は機関を売り切るのではなく、ニューコメン機関に比べて節約できた石炭代の3分の1を、毎年受け取る契約にした。
バーミンガムでは、ボールトンを中心とする「月光協会」の集まりに加わった。満月の夜に集まったのは、帰り道が明るいからである。陶器業者ウェッジウッド、酸素を見つけた化学者プリーストリー、医師で詩人のエラズマス・ダーウィン(チャールズ・ダーウィンの祖父)らがいて、科学と商売と発明を語り合った。
その後もワットは改良を重ねた。ピストンの往復を歯車で回転に変え、ピストンの両側から蒸気を入れて力を倍にし、回転の速さを自動で保つ調速機を付けた。回る力が得られたことで、蒸気機関は鉱山を出て、紡績や製粉の工場を動かすようになる(ワットの蒸気機関)。水車のある川沿いでなくても工場を建てられるようになり、産業革命は町へ広がった。

機関の力を示すために、馬1頭が1分間にどれだけの仕事をするかを見積もり、「馬力」という単位を決めた。馬で水をくんでいた鉱山主に、機関が馬何頭分かを示すための売り文句だった。
一方で、特許を手放さない人でもあった。特許は議会の延長で1800年まで続き、その間、ほかの技術者が改良した機関を作ると訴えた。高い圧力の蒸気は爆発の危険があるとして使わず、高圧の機関に取り組んだ人々とは対立した。このため、特許がかえって蒸気機関の発達を遅らせたという評価もある。

特許の切れた1800年に事業から退いた。その後も書類の複写機や彫刻を写す機械の発明に没頭した。1819年8月25日、バーミンガム近郊の自宅で亡くなった。83歳だった。
1889年、電力の単位に「ワット」の名が付けられた。いま電球や電子レンジに書かれている数字は、この人の名で呼ばれている。蒸気機関を発明したのではない。すでにあった機関の無駄を見抜き、どこでも使える動力に変えた人だった。