できごと

地球の大きさが測られる

Eratosthenes measures the Earth
BC240年頃
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民コイサンサハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民マウリヤ朝セレウコス朝プトレマイオス朝アンティゴノス朝ガリア諸部族カルタゴカルタゴメロエケルト系の人びとPlain-Pottery cultureBrushed Pottery cultureマケドニアカッパドキアカタバーンBell-shaped burials cultureアトロパテネローマナバテア王国ペルガモン王国リュシマコスの王国カッサンドロスの王国Milograd cultureハドラマウトアルメニアEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスサバア王国ギリシア諸ポリスDamotPomeranian cultureBC240年頃アレクサンドリア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC240年頃の版図を描いています(37勢力)。

概要

二つの都市の井戸の影の差から地球の周長を計算した。誤差は数パーセントに収まる。

場所

アレクサンドリア
31.20°N 29.92°E · エジプト

関わった人(1)

エラトステネスBC276年頃–BC194年頃 · 当人

本文

エジプト南部のシエネ(いまのアスワン)では、夏至の日の正午に、深い井戸の底まで日の光が届いたという。太陽が真上に来ているからである。同じ日の同じ時刻、北のアレクサンドリアでは、地面に立てた棒にわずかな影ができる。この違いから地球の大きさを割り出したのが、紀元前3世紀の学者エラトステネスだった。

エラトステネスは、いまのリビアにあったギリシア人の町キュレネに生まれた。アテナイで学んだ後、エジプトの王プトレマイオス3世に招かれてアレクサンドリアに移り、王子の教育係となり、やがてアレクサンドリアの図書館の長になった。数学、天文学、地理学、文学、哲学と手がけた分野は広い。素数を見つけ出すための「ふるい」の方法にも、彼の名が付いている。あらゆる分野で一流に近いが一番ではないという意味で、ギリシア文字の二番目の「ベータ」というあだ名で呼ばれたとも伝えられる。

エラトステネス
エラトステネスWikimedia Commons Public domain

地球が丸いことは、当時のギリシアの学者にとってすでに常識だった。月食のとき月に映る地球の影が丸いことから、アリストテレスがそれを論じている。問題は、どれほどの大きさか、だった。

エラトステネスの考え方は単純である。太陽はとても遠いので、その光は地球のどこにでも平行に届くとみなせる。シエネで太陽が真上にあるとき、アレクサンドリアで影ができるのは、地面が丸く曲がっているからだ。アレクサンドリアで測った影の角度は、地球の中心から見たシエネとアレクサンドリアのあいだの角度と等しくなる。測ってみると、それは円周の50分の1(いまの単位でおよそ7.2度)だった。二つの町の距離は5000スタディオンとされていたから、それを50倍した25万スタディオンが地球一周の長さになる。

19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図
19世紀に再現されたエラトステネスの世界地図Wikimedia Commons Edward Bunbury / Eratosthenes · Public domain

エラトステネス自身の著作は失われており、この方法は、数百年後の天文学者クレオメデスが書いた解説などを通じて伝わっている。測るのに使ったのは、影を受ける半球形の日時計だったとされる。二つの町の距離をどうやって知ったのかは分かっていない。ラクダの隊商が何日かかるかから見積もったという説明もあるが、王の命で歩幅を数えて道のりを測る測量士たちの記録を使ったとする説もあり、いずれも確かな証拠があるわけではない。数字は後に25万2000スタディオンと伝えられるようにもなった。

この値がどれほど正確だったかは、1スタディオンが何メートルかで変わる。当時のスタディオンにはいくつかの種類があり、そのどれを使ったかが分からないからである。1スタディオンを約157.5メートルとすれば、地球一周は約4万キロとなり、実際の値(約4万キロ)とほとんど変わらない。185メートルとすれば約4万6000キロで、15パーセントほど大きくなる。正確さの評価には幅があるが、どちらにしても桁は合っている。

ベルナルド・ストロッツィ画『アレクサンドリアで教えるエラトステネス』(1635年)
ベルナルド・ストロッツィ画『アレクサンドリアで教えるエラトステネス』(1635年)Wikimedia Commons Bernardo Strozzi · Public domain

厳密に見れば、方法にはいくつかの誤りが含まれていた。シエネは北回帰線のわずかに北にあり、夏至でも太陽は完全には真上に来ない。シエネとアレクサンドリアは同じ南北の線の上には無く、東西に少しずれている。距離の5000スタディオンも、おおよその数字だった。それでも結果が実際に近かったのは、誤りがある程度打ち消し合ったためと考えられている。とはいえ、方法そのものの正しさは揺るがない。道具は棒と影と幾何学だけである。

エラトステネスは、この値を使って人が住む世界の地図も描いた。東西と南北の線を引いて場所を示す、緯度と経度の考えの先駆けとされる。

フィリップ・ダニエル・リッパートによるエラトステネスの肖像(1767年の版画)
フィリップ・ダニエル・リッパートによるエラトステネスの肖像(1767年の版画)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

その後、紀元前1世紀の学者ポセイドニオスは、別の方法で地球の大きさを測り、より小さな値を出した。その小さな値が、2世紀のクラウディオス・プトレマイオスの地理書に取り入れられた。プトレマイオスの地理書は、15世紀のヨーロッパで再び読まれるようになる。

コロンブスは、西へ航海してアジアに着けると主張したとき、地球を実際よりかなり小さく見積もり、さらにアジア大陸が東へ長く伸びていると考えた。そのため、ヨーロッパから西回りで日本や中国までの距離を、実際よりはるかに短く計算した。航海の専門家たちはその計算を疑い、多くの宮廷が支援を断った。結果としてコロンブスは、計算どおりの場所にあった陸地に着いたが、それはアジアではなくアメリカ大陸だった(コロンブスの到達)。エラトステネスの値に近い数字を信じていれば、そもそも船は出なかったかもしれない。

エラトステネスは長生きし、80歳を超えるまで生きたとされる。晩年に目が見えなくなり、読むことも星を見ることもできなくなったため、食を断って死んだと伝えられる。

地球の大きさを測る仕事は、その後も続いた。18世紀末のフランスでは、北極から赤道までの子午線の長さの1000万分の1を1メートルと決め、そのために改めて測量が行われた(メートル法の制定)。長さの単位そのものが、地球の大きさから作られたのである。

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