王立協会の設立
概要
「誰の言葉も鵜呑みにしない」を掲げ、実験で確かめたことだけを認める場を作った。学会という仕組みの原型。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
本文
17世紀のヨーロッパでは、自然についての知識は、古代の権威の書を読み解くことで得るものだった。アリストテレスがそう書いているなら、それが答えになる。これに異を唱えたのがフランシス・ベーコンだった。自然は書物ではなく観察と実験で問いただすべきで、知識は多くの人が力を合わせて積み上げるものだ、と説いた。彼が遺した物語には、学者たちが共同で研究にあたる理想の学院が描かれている。
イングランドが内戦と共和政に揺れた1640年代から50年代、その考えに共鳴した人々が、ロンドンやオックスフォードで小さな集まりを持った。オックスフォードではウィルキンズのもとに、ロバート・ボイル、レン、フックといった若い学者たちが集い、実験を見せ合って議論した。

1660年、王政が復古してチャールズ2世が帰国した。その年の11月28日、ロンドンのグレシャム・カレッジで天文学者レンの講義が終わった後、12人が残って、実験によって自然の知識を進める会を作ることを決めた。1662年には王の特許状を得て、王立協会と名乗る。
掲げた標語は「誰の言葉も鵜呑みにしない」だった。ローマの詩人ホラティウスの詩句から採ったものである。実験は人前で行い、複数の会員が立ち会って見届け、手順と結果を記録した。誰か一人の言葉ではなく、その場の証人たちが確かめたことを事実として認める。真理を、見せて共有できるものとして扱った。

1662年からは、のちに『ミクログラフィア』を著すロバート・フックが実験の担当者に雇われ、毎週の会合のために新しい実験を用意した。ボイルの空気ポンプを使った実験(ボイルの法則)は、協会の評判を高めた。犬から犬へ、羊から人へ血を移す輸血の実験まで行われている。
1667年には、会員のスプラットが協会の歴史を書き、飾らない簡潔な言葉で事実を述べることを協会の流儀として掲げた。学問の文章から、古典の引用と修辞を減らそうとしたのである。協会は国から資金を受けず、会員の会費で運営され、いつも金に困っていた。1666年のロンドン大火の後には、フックが市の測量官として再建に加わっている。

1665年、書記のオルデンバーグが会報『フィロソフィカル・トランザクションズ』を始めた。各地から届く観察の報告を載せ、誰が何をいつ見つけたかを日付とともに記録する。発見の先取りを公に認める仕組みが、ここに生まれた。会報はいまも続き、世界で最も古い科学雑誌とされる。オランダのアントニ・ファン・レーウェンフックが顕微鏡で見た小さな生き物の報告も、ここに届いた(レーウェンフックの微生物)。
1672年、アイザック・ニュートンは自作の反射望遠鏡を協会に贈って会員に選ばれ(ニュートンの反射望遠鏡)、光と色についての論文を会報に載せた。これにフックが批判を加え、二人は生涯にわたって争うことになる。1687年の『プリンキピア』は協会の許可を得て出版されたが、協会は魚の本の出版で資金を使い果たしており、費用はエドモンド・ハレーが自腹で出した。

ニュートンは1703年から死ぬまで会長を務め、協会の顔になった。一方で、微積分の先取りをめぐるライプニッツとの争いでは、協会の調査委員会を使って自分に有利な報告をまとめさせたとされる。仕組みができても、人は変わらない。
協会は、学会という仕組みの原型になった。同じ頃にはパリにも科学アカデミーが生まれ、各国に同じような団体が続いた。学者が集まって発表し、互いに確かめ、雑誌に記録して残すという、いまの科学の進め方の骨組みが、ここで形を取った。会報に論文を載せる前に、ほかの学者に読ませて確かめる手順も、こうした学会の営みの中から少しずつ形づくられていった。一方で、女性が会員に選ばれたのは、ようやく1945年のことである。