蔡倫
概要
樹皮や布くずから安価な紙を作る方法をまとめた。書物の値段が変わる。
関わったできごと(1)
蔡倫の製紙法AD105年 · 当人本文
蔡倫は、字を敬仲といい、後漢の桂陽郡(いまの湖南省南部)の出身である。生年ははっきりせず、紀元50年前後とされる。伝記は『後漢書』の宦者列伝にある短い一篇がほぼすべてで、少年時代のことは何も分からない。明帝の永平年間の末、70年代半ばに宦官として宮中に入り、次の章帝の代に小黄門という下級の宦官になった。
後漢の宮廷は、幼い皇帝が続いたため、皇后の一族(外戚)と、皇帝の身近に仕える宦官とが権力を争う場になっていた(後漢の成立)。紀元88年に10歳の和帝が即位すると、蔡倫は中常侍に上り、皇帝のそばで政治の相談にあずかるようになった。伝記は、学問があり、真心をもって仕え、しばしば皇帝の誤りを諫めたと書く。休みの日には門を閉ざして客に会わず、野に出て体を日にさらしていたという。権勢のある宦官のもとには賄賂や頼みごとを持った客が集まるのが常だったから、それを避けていたことになる。
やがて尚方令を兼ねた。尚方は宮廷で使う刀剣や器物を作る工房で、蔡倫が監督して作らせた品は精巧で、後の世の手本になったと伝記はいう。職人の技術と材料を扱う役目だったことが、紙の仕事につながった。
当時、文字は主に竹や木の札(竹簡・木簡)に書かれていた。札を紐で編んで巻物にするので、一冊の書物でもかさばって重い。始皇帝は一日に読む上奏文を重さで量り、120斤(30キロほど)を読み終えるまで休まなかったと伝えられる。もう一つの書写材料である絹(帛)は軽いが値が高く、日常の文書には使えない。『後漢書』は、昔は絹のことを紙と呼んだと書いている。
麻の繊維を使った紙そのものは、蔡倫よりずっと前からあった。西安の郊外の灞橋の墓からは、紀元前2世紀ごろとされる粗い紙が出ており、甘粛省の遺跡からは前漢の時代の、文字の書かれた紙片も見つかっている。ただ、多くは包み紙や詰め物に使われる程度で、竹簡や絹に取って代わるほどの品質と量はなかった。
蔡倫は、木の皮、麻のくず、ぼろ布、古い漁網を材料にして紙を作った。どれも本来は捨てるものである。繊維を叩いてほぐし、水に溶いて簀で漉き上げ、乾かす。材料を安いものに替え、工程を整えて、書くことに耐える紙を安定して作れるようにした。木の皮は、後の時代の紙と同じく楮の類だったと考えられている。元興元年(紀元105年)、蔡倫はこの紙を和帝に献上した(蔡倫の製紙法)。和帝はその才を褒め、それ以来、紙を使わない者はなくなり、世の中は「蔡侯紙」と呼んだと伝記は記している。
同じ年の暮れに和帝が死ぬと、皇后の鄧氏が太后として幼い皇帝を後見し、政治を執った。鄧太后は学問を好み、各地から珍しい献上品を贈らせることをやめさせて、毎年紙と墨だけを納めさせたと『後漢書』の皇后紀にある。蔡倫はこの太后のもとで重んじられ、114年、長く宮中に仕えた功によって龍亭侯に封じられた。その後、太后の宮殿を取り仕切る長楽太僕となり、117年には、経典の文字に誤りが多いとして学者たちが宮中の書庫で本文を校訂した仕事を監督している。紙を広めた人が、書物の本文を正す仕事も預かっていた。
最期は宮廷の争いに巻き込まれた。若い頃、蔡倫は章帝の皇后竇氏の意を受けて、皇太子の母である宋貴人を陥れる取り調べに加わっていた。宋貴人は自殺に追い込まれ、皇太子は廃されている。その廃太子の子が、のちの安帝だった。121年に鄧太后が死んで安帝が自ら政治を執ると、祖母の件を調べ直し、蔡倫に廷尉(司法の役所)へ出頭するよう命じた。蔡倫は辱めを受けることを恥じ、沐浴して衣冠を整え、毒を仰いで死んだ。封じられた領地は取り上げられた。
紙はその後、数百年かけて竹簡と絹に取って代わり、書物の値段と量を変えた。3世紀には文書の多くが紙に書かれるようになり、やがて東アジア全体に広まる。『日本書紀』は、610年に高句麗の僧曇徴が紙と墨の作り方を伝えたと記している。西へは、751年のタラス河畔の戦いで捕虜になった唐の紙漉き職人がサマルカンドで紙を作り始めたという話がよく知られるが、これは後のイスラーム側の記録による伝えで、それ以前から中央アジアに紙が伝わっていたとする見方もある。紙はイスラーム世界を経て12世紀にヨーロッパへ入り、やがてグーテンベルクの活版印刷の印刷を支えることになる。

紙の発明者を蔡倫一人とする見方は、20世紀の発掘で改められた。それでも、捨てる材料から使える紙を作り、皇帝の名のもとに広めたことで、蔡倫は紙の歴史の節目に立つ人物として名を残している。蔡侯紙という呼び名は、紙そのものを指す言葉として後の時代にも使われた。