グーテンベルク
概要
金属活字による印刷を実用にした。考えが広がる速さが、この一手で変わる。
所属
神聖ローマ帝国関わったできごと(1)
グーテンベルクの活版印刷AD1455年頃 · 当人本文
1400年頃、神聖ローマ帝国のライン川沿いの町マインツに生まれた。生年は1394年から1404年まで幅があり、確かなことは分からない。本名はヨハネス・ゲンスフライシュで、グーテンベルクは一家が住んだ屋敷の名に由来する。家は町の門閥貴族に属し、父は大司教の造幣所に関わっていたともいわれる。金属を扱う技術は、この環境の中で身についたと考えられている。

生涯を伝える記録は、ほとんどが裁判と借金の文書である。本人の手紙も日記も肖像も残っていない。いま広く知られる髭の肖像は、死後に想像で描かれたものである。
1430年代、マインツの市政をめぐる貴族とギルドの争いの中で町を出て、ライン川上流のシュトラスブルクに移った。そこでは宝石の研磨を教え、仲間と組んで巡礼用の鏡を作る事業を始めている。アーヘンの大巡礼で聖遺物の光を受け止めるための小さな金属の鏡で、大量に作って売る計画だった。巡礼の年が1年延びて事業は行き詰まり、仲間の遺族と裁判になる。1439年の裁判記録には、印刷機や鉛、型といった言葉が出てきており、すでに秘密の仕事を進めていたことがうかがえる。

金細工師だった。その技術が、活字を鋳る合金の配合に生きている。鉛・錫・アンチモン。冷えるときにわずかに膨らむ配合で、鋳型のすみずみまで文字が回る。同じ大きさの活字を何万個も速く正確に鋳るための、手で持つ鋳造の型も工夫した。文字ごとの幅に合わせて型の幅を変えられる仕組みで、これが発明の心臓部だったとする研究者が多い。
新しかったのは一つ一つの部品ではなく、組み合わせだった。活字、合金、油性インク、ぶどう搾り機を転用した圧盤。どれか一つ欠けても実用にならない。水性のインクは金属の活字をはじいてしまうため、画家の使う油の絵の具に近いインクが作られた。

1448年までにマインツへ戻り、1450年、町の商人ヨハン・フストから800グルデンを借りた。2年後にさらに800グルデンを借りている。大きな工房を開き、職人を雇い、何年もかけて聖書の印刷に取り組んだ。その間にも、暦や文法書、教会が発行する免罪符などの小さな印刷物を刷っている。オスマン帝国と戦うキプロスを支援するために売られた免罪符で、のちにマルティン・ルターが問題にする免罪符の販売を、印刷術が大量化したことになる。
聖書は、1ページに42行のラテン語で組まれ、1455年頃に完成した。グーテンベルクの活版印刷と呼ばれる。刷られたのは180部ほどとされ、紙のものと羊皮紙のものがあった。文字の飾りや章の頭の赤い字は、買い手が手で描き入れさせた。のちに教皇になる人文学者のピッコローミニは、1455年にフランクフルトでその刷り見本を見て、眼鏡無しで読めるほど字がきれいだと手紙に書いている。いまも50部近くが残る。

聖書を印刷したが、事業としては失敗した。完成の頃、フストは貸した金の返済を求めて訴えた。1455年の公証人の記録によると、裁判はフストの勝ちとなる。出資者と訴訟になり、印刷機も活字も差し押さえられている。完成した聖書の利益は、出資者の側に渡った。
フストは、グーテンベルクの工房で働いていた職人ペーター・シェーファーと組んで印刷を続けた。シェーファーはのちにフストの娘と結婚する。二人が1457年に出した詩編集には、印刷者として自分たちの名と日付が刷り込まれた。グーテンベルクの名は、どの本にも刷られていない。そのため、彼の手になる本がどれかは、活字の形などから推し量るしかない。

グーテンベルク自身も、別の出資者を得て小さな工房で印刷を続けたとみられる。1460年に出たラテン語の辞書を彼の仕事とする見方もあるが、決め手は無い。
1462年、マインツは大司教の座をめぐる争いで攻め落とされ、略奪を受けた。多くの印刷職人が町を追われ、各地へ散っていった。皮肉にも、これが技術を広めることになる。秘密だった技術を身につけた職人たちが、ドイツ各地、イタリア、フランスに工房を開いた。

1465年、新しい大司教アドルフ2世は、グーテンベルクを宮廷の家臣に取り立てた。毎年の衣服、穀物、ぶどう酒が与えられ、税も免除された。功績を認めた年金のようなものだったと考えられる。1468年2月に死に、マインツのフランシスコ会の教会に葬られたが、教会はのちに取り壊され、墓は残っていない。
彼が死んだ頃、印刷所はヨーロッパ中に広がっていた。1500年までに印刷所のある町は250を超え、刷られた本は数百万冊とも千万冊を超えるともいわれる。自分の発明で儲けられなかった人の技術が、50年でそれだけの本を刷った。
金属の活字は、朝鮮半島ではそれより早く、高麗の時代に使われていた(『直指』の印刷)。ただ、数万の字を持つ漢字に比べて、アルファベットは少ない種類の活字で文章が組める。その違いが、ヨーロッパで印刷が爆発的に広がった理由の一つとされる。95か条の論題が数週間でドイツ中に広まったのは、マインツの工房から半世紀余り後のことである。