ウィリアム・ショックレー
概要
ロンドン生まれ、パロアルト育ち。MIT。ベル研究所。トランジスタの理論。1956年、ノーベル賞。同じ年、マウンテンビューにショックレー半導体研究所。天才を集めて、疑い、嘘発見器を使い、1957年、8人が辞めた。「8人の裏切り者」。フェアチャイルド、インテル、AMD、ベンチャーキャピタル。シリコンバレーは彼から逃げた人たちが作った。晩年、人種と知能について語って、嫌われた。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
トランジスタの発明AD1947年12月16日 · 接合型を考えた本文
ウィリアム・ショックレーは、1910年2月13日、アメリカ人の両親のもとロンドンで生まれた。父は鉱山技師、母も鉱山の測量の仕事をした人だった。3歳のとき一家はカリフォルニアのパロアルトに移り、彼はそこで育った。カリフォルニア工科大学を出て、1936年にマサチューセッツ工科大学で物理学の博士号を取り、ニュージャージー州のベル研究所に入った。

第二次世界大戦中は、海軍の対潜水艦作戦の研究に加わり、爆雷を爆発させる深さを統計から割り出すなど、作戦研究の分野で働いた。1945年には陸軍省の依頼で、日本本土に上陸した場合の死傷者を推計する報告をまとめ、アメリカ側に数十万人の死者、日本側に数百万人の死者が出るとした。
戦後、ショックレーはベル研究所で固体物理の研究チームを率いた。真空管に代わる、半導体で電気信号を増幅する部品を作るのが目標だった。1947年12月、チームのジョン・バーディーンとウォルター・ブラッテンが、ゲルマニウムの結晶に2本の針を当てた点接触型のトランジスタを作った(トランジスタの発明)。ショックレーはその実験に直接加わっていなかった。悔しさに駆られた彼は、1948年1月、より実用に向く接合型トランジスタの理論を短期間で組み立てた。のちに広く使われたのはこちらの型である。しかし彼は二人の研究を自分の指導のもとに置こうとし、二人との関係は壊れた。バーディーンは1951年にベル研究所を去った。

1956年、3人はノーベル物理学賞を受けた。同じ年、ショックレーは、計測機器の会社ベックマン・インスツルメンツの後ろ盾を得て、母が住むパロアルトに近いマウンテンビューにショックレー半導体研究所を開いた。ベル研究所が使っていたゲルマニウムではなく、シリコンを材料にするつもりだった。名声に引かれて、全米から優秀な若い科学者や技術者が集まった。のちにインテルを作るロバート・ノイスとゴードン・ムーアもその中にいた。
しかし、ショックレーは人を率いることができなかった。部下を疑い、ある事故の犯人を探すために嘘発見器にかけようとし、研究の方向を自分の関心の向くままに変え続けた。シリコンのトランジスタを製品にするという約束は後回しになった。1957年9月、ノイスとムーアを含む8人が一斉に辞めた。ショックレーは彼らを「8人の裏切り者」と呼んだとされる。

8人は、実業家シャーマン・フェアチャイルドの出資を得てフェアチャイルド半導体を作った。ここで1959年、ノイスが、一枚のシリコンの上に多数の部品をまとめる集積回路の方式を考えた(集積回路)。やがてフェアチャイルドからも人が次々に独立し、1968年にノイスとムーアがインテルを(一つの部品に計算機を)、1969年にはジェリー・サンダースがAMDを作った。8人の一人ユージン・クライナーは、のちにベンチャー投資の会社を興した。サンフランシスコ湾の南にシリコンバレーと呼ばれる産業の集積が生まれたのは、ショックレーのもとから逃げ出した人々によってだった。ショックレーの会社は1960年に売却され、やがて消えた。
1963年、ショックレーはスタンフォード大学の教授になった。1960年代の半ばから、彼は専門外の人種と知能の問題について発言を始めた。知能の差は遺伝によるところが大きく、黒人は遺伝的に知能が低いと主張し、知能の低い人が自ら不妊手術を受ければ報奨金を出すという案まで唱えた。こうした主張は、科学的な根拠を欠く優生学として強い批判を浴び、講演会は抗議で妨げられ、同僚たちは離れていった。ノーベル賞受賞者の精子を集めるという精子バンクに、提供者として加わったことも公言した。
1989年8月12日、ショックレーはスタンフォードの自宅で前立腺癌のため死んだ。79歳だった。晩年は家族とも疎遠になり、子どもたちは新聞で父の死を知ったと伝えられる。トランジスタという20世紀を変えた部品の生みの親の一人であり、意図せずしてシリコンバレーを生んだ人だが、その名は同時に、科学者が専門の外で振るった偏見の例としても記憶されている。