サミュエル・モールス
概要
画家。ラファイエットの肖像を描いていたとき、ワシントンから妻が病気だと手紙が来て、着いたときには埋葬されていた。遠くに速く伝える方法を考えた。1832年、船の上で電信を思いつき、ヴェイルと符号を作った。1844年、議会が3万ドル。「神は何を成し給うたか」。特許で富んだ。反カトリック、反移民、奴隷制の擁護者でもあった。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
モールスの電信AD1844年5月24日 · 送った本文
サミュエル・モールスは1791年、ボストンの隣町チャールズタウンに生まれた。父ジェディダイア・モールスは会衆派の牧師で、アメリカで最初の地理の教科書を書いた学者としても知られる。厳格な信仰の家で育ったモールスは、イェール大学で学び、在学中に電気についての講義を聴いているが、心を奪われたのは絵だった。

卒業後の1811年、彼は画家になるためにイギリスへ渡り、ロンドンで4年間、歴史画を学んだ。神話や聖書の大きな場面を描く歴史画こそが最高の芸術だと信じていた。だが帰国してみると、アメリカにはそうした絵を買う人がほとんどいなかった。彼は各地を回って肖像画を描き、暮らしを立てた。
1825年、ニューヨーク市から、アメリカ独立戦争の英雄ラファイエットの肖像を描く依頼を受けた。名誉ある仕事で、彼はワシントンで制作に取りかかった。そこへ、コネティカットのニューヘイブンにいる父から手紙が届いた。妻ルクリーシアが出産のあと急に亡くなったという知らせだった。急いで帰ったが、着いたときにはすでに葬られていた。知らせが届くまでに何日もかかったのである。のちに彼が遠くへ速く知らせを伝える方法に心を傾けたことと、この経験を結びつける語り方は多い。翌1826年、彼は画家たちの団体である全米デザイン・アカデミーの設立にかかわり、初代の会長になった。

1832年、ヨーロッパでの2度目の修業を終えて帰る船の上で、転機が訪れた。食卓で、乗り合わせた医師チャールズ・ジャクソンが電磁石の実験の話をし、電気は電線の長さにかかわらず一瞬で伝わるようだと語った。モールスは、それなら電流を切ったりつないだりすることで、遠くへ信号を送れるはずだと考え、ノートに装置の図を描いた。電気で信号を送るという考え自体は、ヨーロッパではすでに何人もが試みていたが、彼はそれを知らなかった。
帰国後、ニューヨーク大学で絵画を教えながら、彼は装置作りに取り組んだ。最初の試作品は、絵のキャンバスの木枠を使って組み立てたものだった。電気の知識は乏しく、同僚の化学の教授から、科学者ジョゼフ・ヘンリーの電磁石の研究を教えられて、長い距離でも信号が弱らない工夫を取り入れた。のちにモールスは自分の発明を強く主張し、ヘンリーとは手柄をめぐって不和になっている。1837年には、製鉄所を営む家の青年アルフレッド・ヴェイルが資金と腕を持って加わった。装置を作り直し、短点と長点の組み合わせで文字を表す符号を整えるうえで、ヴェイルの果たした役割は大きかったと考えられている。

1838年、モールスはワシントンで議会の議員たちに装置を実演したが、予算はつかなかった。ヨーロッパで特許を取ろうとした旅もうまくいかなかった。何年も金に困り、絵も描けなくなった。1843年3月3日、会期の最後の夜に、ようやく試験線を引くための3万ドルの予算が議会を通った。1844年5月24日、ワシントンとボルティモアを結んだ電線で、旧約聖書の一節「神は何をなされたか」が送られた(モールスの電信)。
その後の彼は、特許をめぐる長い争いの中にいた。1854年、連邦最高裁は彼の特許の多くを認めたが、電気で遠くへ文字を伝えるあらゆる方法を自分のものとする最も広い主張は退けた。それでも電信の事業は急速に広がり、モールスは豊かになった。ハドソン川沿いのポキプシーに屋敷を構え、1858年にはヨーロッパの国々から、電信への功績をたたえて多額の謝礼が贈られた。1871年には、生きているうちにニューヨークのセントラル・パークに彼の像が建てられた。

彼はまた、写真をアメリカに持ちこんだ一人でもある。1839年、パリでダゲールに会って銀板写真を見せてもらい(写真の発明)、帰国してその技術を広め、のちに南北戦争の写真で名を残すマシュー・ブレイディらに教えた。
一方で、モールスには今日の目から見て暗い面がある。1830年代、彼はローマ教皇とヨーロッパの君主たちがカトリックの移民を使ってアメリカの自由を奪おうとしている、と説く本を書き、移民の排斥を掲げる党からニューヨーク市長選に出て敗れた。奴隷制については、それは罪ではなく神の定めた秩序だとする文章を1863年に書き、南北戦争のあいだエイブラハム・リンカーンの政府に反対する側に立った。

1872年4月2日、モールスはニューヨークで80歳で亡くなった。そのころには電信は大陸を覆い、海底ケーブルが大西洋を越えていた(大西洋横断電信ケーブル)。画家として名を残すことを夢見た人は、別の分野で名を残した。ルーヴル美術館の名画を一つの部屋に描き集めた彼の大作『ルーヴルの画廊』は、いまでは19世紀アメリカ絵画の代表作の一つとして見直されている。