できごと

トランジスタの発明

Point-contact transistor
AD1947年12月16日
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国デンマークメキシコホンジュラスキューバグアテマラAD1947年12月16日マレーヒル(ベル研究所)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1947年12月16日の版図を描いています(9勢力)。

概要

ベル研究所のバーディーンとブラッテンが、ゲルマニウムの結晶に2本の金の接点を押しつけて、信号が増幅されるのを見た。点接触型。上司のショックレーは自分が外されたと怒って、1か月で接合型を考えた。真空管より小さく、熱くならず、壊れない。1956年、3人でノーベル賞。ショックレーはカリフォルニアで会社を作り、そこから出た8人がフェアチャイルドとインテルを作った。シリコンバレー。

場所

マレーヒル(ベル研究所)
40.68°N -74.40°E · アメリカ・ニュージャージー州

関わった人(1)

ウィリアム・ショックレーAD1910年2月13日–AD1989年8月12日 · 接合型を考えた

本文

電話の声は、電線を遠くまで送るうちに弱くなる。だから途中で何度も信号を増幅しなければならない。20世紀の前半、その役目を担っていたのは真空管だった。ガラスの管の中で熱した金属から電子を飛ばし、網に加える電圧で流れを制御する。真空管はラジオもテレビも、のちの計算機も可能にしたが、大きく、熱を出し、電気を食い、電球と同じようにやがて切れた。1946年に完成した計算機ENIACは1万7000本を超える真空管を使い、そのどれかがしょっちゅう切れた。

アメリカの電話会社AT&Tの研究所であるベル研究所は、ニュージャージー州マレーヒルにあった。アレクサンダー・グラハム・ベルの名を冠したこの研究所は、真空管に代わる、固体の結晶でできた増幅器を探していた。目をつけたのは半導体である。ゲルマニウムやシリコンは、電気を通す金属と通さない絶縁体の中間の性質を持ち、混ぜるわずかな不純物で性質が大きく変わる。戦争中のレーダーの研究で、半導体の結晶を作り、扱う技術は大きく進んでいた。

ベル研究所で発明された点接触トランジスタの復元模型(1947年12月23日)
ベル研究所で発明された点接触トランジスタの復元模型(1947年12月23日)Wikimedia Commons Federal employee · Public domain

1945年、研究所は固体物理の研究班を作り、ウィリアム・ショックレーがその責任者になった。ショックレーは、半導体の表面に外から電圧をかければ、中を流れる電流を制御できるはずだと考えた。だが実験すると、効果はほとんど現れなかった。理論家のジョン・バーディーンがその理由を考え、半導体の表面にとらえられた電子が、外からの電界を遮ってしまうのだと説明した。そこからバーディーンと、実験の名手ウォルター・ブラッテンの二人が、表面で何が起きているかを調べる実験を重ねていった。

1947年12月16日、ブラッテンは、プラスチックの小さな楔の先に金箔を貼り、その頂点をかみそりの刃で切って、ごく近い二つの接点を作った。それをゲルマニウムの板の表面に押しつけ、片方の接点に信号を入れると、もう片方から大きくなった信号が出てきた。増幅である。1週間後の12月23日、二人は研究所の幹部の前でこの装置を使い、話し声を大きくして聞かせてみせた。この形は、金属の針の先を結晶に当てることから点接触型と呼ばれる。名前は、研究所の技術者ジョン・ピアースが、電気を伝える働きと抵抗の働きを組み合わせた言葉として「トランジスタ」と名づけた。

スタンフォード大学でのウィリアム・ショックレー
ウィリアム・ショックレーWikimedia Commons Chuck Painter / Stanford News Service · CC BY 3.0

ショックレーは喜ばなかった。研究班の長でありながら、決め手の実験に立ち会っておらず、研究所の特許の申請にも彼の名は入らなかった。悔しさを抱えた彼は、年末から年始にかけて、出張先のシカゴのホテルにこもって考え続けた。そして1948年1月、点接触ではなく、性質の違う半導体の層を三枚重ね、結晶の内部の構造で増幅する方法を書きとめた。接合型トランジスタである。点接触型は作るたびに性能がばらつき、壊れやすかったが、接合型は理論どおりに作ることができた。1951年に実際に作られ、それ以後のトランジスタは、ほとんどがこの考え方の子孫になった。

ベル研究所は1948年6月30日に発明を公表したが、新聞の扱いは小さかった。小さな部品が何をもたらすか、まだ誰にも見えていなかった。最初に使われたのは補聴器で、1954年にはトランジスタだけで動く携帯ラジオがアメリカで売り出された。同じ年、テキサス・インスツルメンツは、熱に弱いゲルマニウムに代わってシリコンでトランジスタを作ることに成功した。日本では、東京通信工業(のちのソニー)がベル研究所と同じ系列のウェスタン・エレクトリック社から特許の使用権を買い、1955年に自社のトランジスタラジオを出した。小さく、電池で長く鳴るラジオは世界に売れた。

1958年、テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーは、トランジスタと抵抗とコンデンサーを一つの結晶の上にまとめて作れることを示し、翌年、ロバート・ノイスがそれを量産に向く形にした(集積回路)。部品を一つずつ配線でつなぐ必要がなくなり、一枚の板に載せられるトランジスタの数は年ごとに倍々に増えていった。1971年に出た最初の商用マイクロプロセッサは、2300個ほどのトランジスタで計算機を一つの部品に収めた(一つの部品に計算機を)。いまの半導体の部品には、1つに数百億個のトランジスタが詰め込まれている。

1956年、ショックレー、バーディーン、ブラッテンの3人はノーベル物理学賞を受けた。もっとも3人の仲は、発明のあと修復されなかった。バーディーンはやがてベル研究所を去り、1972年、超伝導の理論でもう一度ノーベル物理学賞を受けた。物理学賞を二度受けたのは、いまも彼一人である。

ショックレーは1956年、母の住むカリフォルニア州のパロアルトの近くに自分の会社を作り、全米から優秀な若い研究者を集めた。だが彼の指導は猜疑心が強く横暴で、研究の方向も迷走した。1957年、ノイスやゴードン・ムーアら8人がそろって辞め、フェアチャイルド半導体を作った。ショックレーは彼らを裏切り者と呼んだ。フェアチャイルドからはさらに多くの会社が生まれ、1968年にはノイスとムーアがインテルを作った。サンフランシスコ湾の南の果樹園が広がっていた一帯は、やがてシリコンバレーと呼ばれるようになる。ショックレー自身の会社は成功せず、晩年の彼は、知能と人種をめぐる差別的な主張で激しい批判を浴びた。

12月の実験で使われた最初の点接触型トランジスタは、いまもベル研究所に保管されているとされ、その複製が各地の博物館で展示されている。親指ほどの大きさの、金箔と結晶とばねの粗末な仕掛けである。

同じ時代のできごと

血液型で性格を占うAD1927年足を測るAD1927年リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行AD1927年5月21日除夜の鐘を中継するAD1927年映画がしゃべるAD1927年10月6日不確定性原理AD1927年3月サッコとヴァンゼッティの処刑AD1927年8月23日金融恐慌AD1927年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD1947年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →