定期刊行の新聞の始まり
概要
毎週おなじ日に、遠くの出来事が同じ紙面に並ぶ。顔も知らない何万人が、同じ朝に同じことを読む。国民という感覚は、この習慣の上に育った。
場所
48.57°N 7.75°E · フランス・グラン・テスト地域圏
本文
1605年、神聖ローマ帝国の自由都市ストラスブール(いまはフランス)で、書籍商のヨハン・カロルスが、市の参事会に一通の願い出をした。自分が毎週刷っている新聞を、他の印刷業者が勝手に刷り直さないよう守ってほしい、という内容である。この文書が、20世紀になって町の文書館で見つかった。定期的に刊行された新聞の、いま知られる最も古い証拠である。
それまでも、遠くの出来事を伝える手段はあった。15世紀の半ばにグーテンベルクの活版印刷で活版印刷が始まると、戦争や天変地異、怪物の出現といった珍しい出来事を伝える刷り物が、一枚物や小冊子で売られるようになった。大きな商人や君主は、各地に情報を集める人を置き、手書きの通信を定期的に受け取っていた。ヴェネツィアやアウクスブルクの商人の家には、そうした手紙が集まった。フランクフルトの見本市では、半年分の出来事をまとめた冊子が売られていた。

カロルスはもともと、そうした手書きの通信を書き写して、町の有力者に売っていた。毎週、各地から届く知らせを書き写すのは手間がかかる。そこで彼は、印刷機を買い取り、知らせを活字で刷ることにした。部数を増やせば、一部あたりの値段を下げ、より多くの客に売れる。題は「すべての主だった記憶すべき出来事の報告」といった意味のもので、毎週出された。現存する最も古い号は、1609年のものである。
新しかったのは、「定期」であることだった。何か大きな出来事が起きたから刷るのではない。決まった日が来るから刷る。ウィーンから、ローマから、パリから、ケルンから、届いた順に、届いた知らせを並べる。大事件の隣に、ありふれた知らせが並ぶ。何も起きていなければ、それでも紙面は埋められる。人々は、出来事を待つのではなく、決まった日に新聞を待つようになった。
カロルスに続いて、ドイツの各地で週刊の新聞が出はじめた。1609年にはヴォルフェンビュッテルでも新聞が出ている。1618年に三十年戦争が始まると、新聞は一気に広まった。戦争の成り行きは、商人にも、領主にも、町の人々にも、暮らしにかかわる大問題だった。オランダのアムステルダムでは、新聞が他の国の言葉でも作られ、イギリスに運ばれた。1631年にはフランスで、王の宰相リシュリューの後押しを受けた新聞が出た。毎日出る日刊の新聞は、1650年にドイツのライプツィヒで生まれたとされる。

新聞は、権力にとって便利でもあり、危うくもあった。君主たちは、自分に都合の良い知らせを広めるために新聞を使い、都合の悪い知らせを載せる新聞は検閲し、禁じた。新聞が政府を自由に批判できるようになるまでには、さらに長い時間がかかる。
新聞が人々の心に与えた変化を、政治学者ベネディクト・アンダーソンは物語「『想像の共同体』で読む歴史」で論じている。新聞は一日で古くなる本で、それを毎朝、大勢の人がほとんど同じ時刻に読む。自分が読んでいる記事を、顔も名前も知らない何千、何万の人が、いま同時に読んでいる。読者はそのことを知っている。この繰り返しが、会ったこともない人々を一つのまとまりとして感じさせた、とアンダーソンは言う。アンダーソンは、新聞を読むことは近代人にとって朝の祈りの代わりになった、という哲学者ヘーゲルの言葉も引いている。

紙面の作り方も、その感覚を支えた。ある日の新聞には、遠い国の戦争と、近所の火事と、船の入港と、物の値段が並ぶ。それらに互いのつながりは無い。ただ、同じ日付の下に並んでいる。読者は、同じ時間の中で、自分の国という一つの舞台の上で、さまざまなことが同時に起きていると感じるようになる。国民という感覚は、この習慣の上に育ったとアンダーソンは考えた。
新聞の習慣は、ヨーロッパから世界へ広がった。日本では、江戸時代には事件を一枚刷りで伝える瓦版があったが、定期的に出る日刊の新聞が生まれたのは、明治の初めの1871年である(横浜毎日新聞の創刊)。

その後、新聞は大量に刷られるようになり、19世紀から20世紀にかけて、世論を動かす大きな力を持った。いま、紙の新聞を読む人は減り続けている。だが、毎朝、遠くの出来事を同じ画面で確かめるという習慣そのものは、形を変えて続いている。決まった時に、まだ見ぬ大勢の人と同じことを知る。その始まりが、ストラスブールの書籍商の週刊の刷り物にある。