産業革命

概要
石炭と蒸気で、人と家畜の力に頼らない生産が始まった。人類の暮らしが根本から変わる。
場所
53.48°N -2.24°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ジェームズ・ワットAD1736年–AD1819年 · 蒸気機関を実用にした本文
18世紀の半ばまで、人間が使える力は限られていた。自分の筋肉、牛や馬、水車、風車。どれも量に上限があり、場所を選ぶ。水車を回すには川が要り、風車は風まかせになる。どれほど賢い王も、どれほど豊かな商人も、この枠の中で暮らしていた。
その枠を破ったのが石炭だった。地中に眠る数億年分の植物の名残を燃やせば、川も風も無いところで、昼夜を問わず力を取り出せる。産業革命とは、この地下の燃料を人間の動力に変えた出来事と言い直せる。
なぜイギリスから始まったのかには決まった答えがない。石炭が浅いところにあり、しかも運河や海で運べたこと。毛織物と綿布を売る植民地と海外市場があったこと。囲い込みで農村の働き手が都市に出ていたこと。特許の制度と、職人と学者が同じ集まりで話す土壌があったこと。どれも要るが、どれも単独では足りない。経済史家ロバート・アレンは、イギリスは賃金が高く石炭が安かったため、人手を機械と燃料に置き換える発明がここでだけ割に合ったと説明する。なぜ同じく豊かだった中国の長江下流域ではなかったのかは「大分岐」と呼ばれ、いまも議論が続いている。

最初の蒸気機関は、炭鉱の水をくみ出すためのものだった。1712年のニューコメンの蒸気機関は大量の石炭を食ったが、燃料がただ同然の炭鉱でなら使えた。これを改良したのがジェームズ・ワットになる。シリンダーとは別に蒸気を冷やす部屋を設けることで、燃料の消費を大きく減らした。1769年に特許を取り、のちに実業家ボールトンと組んで、回転運動を取り出せる機関を工場に売るようになる。
先に機械化が進んだのは綿だった。ハーグリーヴズのジェニー紡績機、アークライトの水力紡績機、クロンプトンのミュール紡績機と、18世紀後半の数十年で、一人の職人が回す糸車が、数十から数百の紡錘を同時に回す機械に置き換わった。はじめは水車で動かしたが、やがて蒸気が入る。工場は川のそばでなくてよくなり、石炭と働き手の集まる町に建つようになった。

その中心がマンチェスターである。1801年に7万人ほどだった人口は、50年後には30万人を超えた。綿の原料はアメリカ南部の奴隷制の農園から来た。綿繰り機が南部の綿花栽培を爆発的に広げ、奴隷制をかえって強めたことは、この革命の影の部分になる。
鉄と輸送も変わった。木炭の代わりに石炭から作るコークスで鉄を溶かすようになり、森を切り尽くさずに鉄が大量に作れる。1825年には、イングランド北東部で蒸気機関車の走る公共の鉄道が開業し(鉄道の開業)、1830年にはリヴァプールとマンチェスターが鉄道で結ばれた。ロケット号とレインヒルで蒸気機関車の速さが示されると、数十年のうちに国中に線路が張られる。

同じ時期に、都市の平均寿命は一度下がっている。煤煙、汚水、密集した住まい、コレラ、長時間労働、子どもの労働。紡績工場では10歳に満たない子どもが一日12時間以上働くこともあった。1833年工場法は9歳未満の子どもを繊維工場で雇うことを禁じたが、それが規制の始まりだったことが、それまでの状態を物語る。1845年、若いエンゲルスはマンチェスターの労働者街を歩いて報告を書き、のちにカール・マルクスとともに『共産党宣言』を著した。
機械に仕事を奪われる側も黙ってはいなかった。1811年から数年のあいだ、イングランド中部と北部では、職を失った手織りの職人たちが夜に工場を襲い、編み機や織機を打ち壊した。彼らは架空の指導者の名をとってラッダイトと呼ばれた。政府は軍を送り、機械を壊すことを死刑に当たる罪とした。のちには、男子の普通選挙を求めるチャーティスト運動のように、壊すのではなく政治に訴える運動が育っていく。

暮らしが良くなったのか悪くなったのかは、「生活水準論争」として長く争われてきた。賃金の統計、食べ物の値段、兵士の身長の記録などを使って調べられているが、19世紀前半の労働者にとって目に見える改善は乏しかったとする見方が強い。統計がはっきり改善に転じるのは、半世紀以上あとになる。
「産業革命」という呼び名が広まったのは、1880年代のアーノルド・トインビーの講義からである。ただし、当時の人が一夜の革命を体験したわけではない。変化はおよそ80年をかけてじわじわと進み、成長率も最初は年に1〜2パーセント程度にすぎなかった。それでも、それが止まらずに続いたことが、それまでの人類史と決定的に違った。人口と生産がともに増え続ける世界は、ここから始まる。
イギリスは長く機械の輸出や職人の出国を制限したが、技術は止められなかった。19世紀にはベルギー、フランス、ドイツ、アメリカが続き、1851年のロンドン万国博覧会では、ガラスと鉄で組んだ巨大な会場に各国の機械が並べられた。日本では、明治の政府が富岡に官営の製糸場を建て、1872年に新橋と横浜のあいだに鉄道を走らせた。イギリスが80年かけた道のりを、後から来た国々は数十年で駆け抜けようとした。

いま地球の大気にある二酸化炭素の増加分は、ほとんどこの時から後に出たものである。産業革命の前に280ppmほどだった濃度は、21世紀には400ppmを大きく超えた。石炭を燃やして手にした力は、そのつけを、200年以上たってから払わせようとしている。