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Event / できごと

中世の農業革命

Medieval agricultural revolution
AD800年頃
年に諸説あり重要度 5

概要

重量有輪犂(鉄の犂先、撥土板、車輪。北の重い粘土の土を深く耕して、返す。牛8頭)。三圃制(冬穀、春穀、休閑。土地の3分の2を使う。二圃制の半分より多い。春に燕麦と豆——馬の餌と、人の蛋白質)。馬の首輪(肩に掛ける。馬が牛の倍の速さで引ける)。蹄鉄。水車。9世紀から13世紀、ヨーロッパの人口が2倍になり、森が畑になり、村が街になった。「暗黒時代」の中で。

場所

アーヘン
50.78°N 6.08°E · ドイツ

本文

ローマの犂は軽い。木で、先が尖って、土を掻く。地中海の乾いた軽い土に合う。畑を縦横に2度耕す。畑は四角い。

重量有輪犂。鉄の犂先、犂刀(前で縦に切る)、撥土板(切った土を横に返す)、車輪(深さを一定に)。北ヨーロッパの重い、湿った、粘土の土を、深く耕して返す。排水になる。1度耕せばよいが、牛が8頭要る。8頭を持つ農家はなく、村で出し合った。畑は長い帯になった(回すのが大変なので)。「開放耕地」。1世紀のプリニウスがアルプスの車輪つきの犂を書き、8〜9世紀に北フランスとライン地方へ広がった。

三圃制。耕地を3つに分ける。秋に蒔く冬穀(小麦、ライ麦)、春に蒔く春穀(大麦、燕麦、豆)、休閑(家畜を放して糞で肥やす)。3年で回す。二圃制なら耕地の2分の1、三圃制なら3分の2を使う。春の作業が増えて労働が平均化し、凶作の危険が分散する。燕麦は馬の餌、豆は人の蛋白質で、土に窒素を戻す。810年頃のサン・ジェルマン・デ・プレ修道院の所領台帳に跡があり、カール大帝の「ヴィラ令」が春穀と冬穀を区別している。9世紀から12世紀に広がった。

馬。古代の馬具は首に紐をかけた(引くと喉が締まる)。中国から中央アジア経由で、10世紀頃、肩に掛ける首輪(ホースカラー)が来た。馬が牛の1.5〜2倍の速さで、長く引ける。蹄鉄(9世紀頃から)。縦列の繋ぎ方。12世紀から、北フランスとイングランドで、犂を馬が引くようになった。馬は燕麦を食う。三圃制で作れる。

水車。風車。

結果。ヨーロッパの人口は、1000年に3800万、1340年に7400万(推定)。2倍。「大開墾」。森が畑になり(ドイツの東方植民、フランドルの干拓、シトー会の荒地)、村が増え、余った穀物が町を養い、町が復活した。「商業の復活」「12世紀ルネサンス」。

リン・ホワイト(『中世の技術と社会変動』1962年)が「農業革命」と呼び、ヨーロッパの重心が地中海からライン・ロワール・テムズへ動いたことを、これで説明した。反論もある。犂も三圃制も馬の首輪も、広がるのに何百年もかかり、地方によって違い、「革命」と言えるほど急ではない、と。それでも、9世紀の農民と13世紀の農民は、違う道具で、違う畑で、違う量を作っていた。

同じ時代のできごと

両税法AD780年ラービアと神への愛AD780年頃ヴェルデンの虐殺AD782年アーヘンの宮廷学校AD782年コルドバの大モスクAD785年(着工)ハールーン・アッラシードの治世786年ボナンパクの壁画AD791年ヴァイキングの襲来AD793年6月8日