中世の農業革命
概要
重量有輪犂(鉄の犂先、撥土板、車輪。北の重い粘土の土を深く耕して、返す。牛8頭)。三圃制(冬穀、春穀、休閑。土地の3分の2を使う。二圃制の半分より多い。春に燕麦と豆——馬の餌と、人の蛋白質)。馬の首輪(肩に掛ける。馬が牛の倍の速さで引ける)。蹄鉄。水車。9世紀から13世紀、ヨーロッパの人口が2倍になり、森が畑になり、村が街になった。「暗黒時代」の中で。
場所
50.78°N 6.08°E · ドイツ
本文
古代ローマの農業は、地中海の気候と土に合わせて作られていた。夏は乾き、冬に雨が降る。土は軽く、水はけがよい。そこで使われた犂は、木の柄の先に尖った刃をつけた軽いもので、土を深く返すのではなく、表面を引っかいて筋をつける。乾いた土の水分を逃がさないためにはそれで十分で、一頭か二頭の牛で引けた。畑は縦と横の二度にわたって耕され、四角い区画になった。畑の半分に麦を蒔き、残りの半分を休ませる二圃制が普通だった。
アルプスより北のヨーロッパは、事情がまるで違った。雨が多く、土は重く湿った粘土で、森に覆われていた。軽い犂では、粘りつく土をほとんど耕せない。ローマ帝国が倒れたあと、西ヨーロッパの中心が地中海からライン川やセーヌ川の流域へ移っていくにつれ、北の土を耕す技術が必要になった。8世紀から13世紀にかけて、その技術がいくつも重なって広まり、ヨーロッパの農業の姿を変えた。これを中世の農業革命と呼ぶことがある。

第一は、重い犂である。前に縦向きの刃(犂刀)がついていて土を切り、その後ろの鉄の刃(犂先)が土を水平にすくい、斜めの板(撥土板)が切り取った土を片側へひっくり返す。車輪がついていて、深さを一定に保てる。重い粘土を深く耕して返すことで、雑草が埋もれ、土に空気が入り、畑に水はけのよい畝ができた。そのかわり、引くのに力が要った。イングランドの記録には8頭の牛で引く例が見える。一軒の農家がそれだけの牛を持つことはまれで、村人たちは牛と犂を出し合って共同で耕した。重い犂は方向を変えるのが大変なので、畑は長い帯の形になり、村のまわりの広い耕地を、多くの家の細長い地条が並んで分け合う開放耕地の風景が生まれた。車輪のついた犂そのものは、1世紀のローマの博物学者プリニウスがアルプスの地方のものとして書き残している。
第二は、三圃制である。村の耕地を三つに分け、一つには秋に小麦やライ麦を蒔き、一つには春に大麦や燕麦や豆を蒔き、残りの一つは休ませて家畜を放し、その糞で肥やす。これを毎年回していく。二圃制では耕地の半分しか作物を作れないが、三圃制なら3分の2で作れる。蒔く時期が秋と春に分かれるので、仕事が一年のなかでならされ、片方の作物が天候でやられても、もう片方で食いつなげた。春に蒔く豆は人の食べ物になって不足しがちな蛋白質を補い、根に住む菌の働きで土を肥やした。燕麦は馬の餌になった。9世紀のはじめ、パリのサン・ジェルマン・デ・プレ修道院がまとめた所領の台帳には、冬の麦と春の麦を分けて作っていた跡が見える。カール大帝の時代に出された王の所領の管理の定めも、冬の作物と春の作物を区別している。

第三は、馬である。古代の馬の引き具は、首と胸に帯をかけるもので、重い物を引こうとすると帯が喉を締め、馬は力を出せなかった。10世紀ごろまでに、肩に掛ける固い首輪がヨーロッパに広まり(肩で引く)、馬は牛と同じくらいの重さを、牛よりずっと速く引けるようになった。蹄を守る鉄の蹄鉄も同じころに広まり(蹄鉄)、湿った北の土地でも馬の足が傷みにくくなった。12世紀ごろから、北フランスやフランドル、イングランドの一部では、犂を馬に引かせる農家が現れた。馬は牛より多くの餌を食べるが、三圃制で作る燕麦がそれを支えた。三つの技術は、互いに支え合っていた。
水の力も使われた。川に水車を据えて粉をひくやり方はローマ時代から知られていたが、中世に大きく広まった。1086年にイングランドで作られた土地の台帳には、5000を超える水車が記録されている(ドゥームズデイ・ブックの水車)。12世紀の末には、風で回る風車も現れた(ヨーロッパの風車)。

これらの技術と、比較的暖かかった気候が重なって、ヨーロッパの人口は増えはじめた。推計には幅があるが、紀元1000年ごろに4000万人前後だった人口は、14世紀のはじめには7000万人から8000万人ほどに増えたとされる。人々は森を切り開き、沼を干拓して畑を広げた。11世紀から13世紀にかけては「大開墾の時代」と呼ばれる。シトー会の修道士たちは荒れ地に修道院を建てて耕し、フランドルの人々は海から土地を取り、ドイツの農民たちはエルベ川の東へ移り住んで新しい村を作った。食べ物に余りが出ると、それを売り買いする市が立ち、職人や商人が集まる町が育った。北の海の交易を結んだハンザ同盟の繁栄も、その延長にある。
この変化を「農業革命」と名づけて広く知らしめたのは、アメリカの歴史家リン・ホワイトの『中世の技術と社会変動』(1962年)である。ホワイトは、重い犂と三圃制と馬の利用が北ヨーロッパの生産力を高め、ヨーロッパの重心を地中海からライン川やセーヌ川、テムズ川の流域へ移したと論じた。同じ本で彼は、鐙の伝来が騎士の時代を生んだとも論じている(鐙と騎士)。

ホワイトの説には、多くの批判も寄せられた。重い犂も三圃制も馬の首輪も、広まるのに何百年もかかり、地方によって使われ方がまるで違った。地中海の地方では、軽い犂と二圃制が近代まで使われ続けた。一つの技術が社会を変えたというより、人口の増加や領主の支配のしかた、村の共同の仕組みと絡み合いながら、ゆっくりと変わっていったと見るほうが実態に近いとされる。「革命」と呼ぶには遅すぎるという指摘もある。
それでも、9世紀の農民と13世紀の農民とでは、使う道具も、耕す畑の形も、穫れる量も違っていた。その変化が北ヨーロッパに多くの人口を養わせ、町と商業を育てたことは確かである。増えすぎた人口は、14世紀に入ると飢饉に苦しみ、1347年からの黒死病で大きく減ることになる。