人物

アレクサンダー・グラハム・ベル

Alexander Graham Bell
AD1847年3月3日 – AD1922年8月2日(享年75)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

エディンバラ。父は視話法(発音を記号で示す方法)の研究者、母と妻は聴覚を失っていた。聾者の教師として音声の伝達を研究するうちに、電話へ。ボストン大学の教授。特許(1876年)は、史上最も価値のある特許と言われ、600件の訴訟に勝った。ヘレン・ケラーをサリヴァンに引き合わせた。飛行機、水中翼船、金属探知機(ガーフィールド大統領の弾を探した)。自分の研究室に電話を置かなかった、と伝える。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(1)

ベルの電話AD1876年3月10日 · 言った

本文

アレクサンダー・グラハム・ベルは、1847年3月3日、スコットランドのエディンバラに生まれた。祖父も父も、話し方を教える教師だった。父アレクサンダー・メルヴィル・ベルは、舌や唇や喉をどの位置に置けばその音が出るかを記号で表す「視話法」を考案した。どの言語の音でも書き表せる、万国共通の発音記号を目指したものである。母イライザは画家で、若いころから耳がほとんど聞こえなかった。少年ベルは、母の額に口を近づけ、低い声で話しかけた。声の震えが骨を伝わって届くことを、彼はこうして体で知った。

アレクサンダー・グラハム・ベルの肖像
アレクサンダー・グラハム・ベルの肖像Wikimedia Commons Moffett Studio · Public domain

ミドルネームの「グラハム」は、11歳のとき、父の知人の名を取って自分でつけたものである。学校の勉強は好きではなかったが、手を動かして試すことは好きだった。12歳ごろ、友人の父が営む製粉所で、何か役に立つことをしてみろと言われ、小麦の殻を取る道具を工夫した。兄と一緒に、人の喉と口を模した話す人形を作ったり、飼い犬の口と喉を手で動かして、言葉らしく聞こえる音を出させたりして遊んだ。

青年になると、父の視話法を使って、耳の聞こえない子供たちに話し方を教えるようになった。だが1867年に弟が、1870年に兄が、相次いで結核で死んだ。両親は残った一人息子の健康を案じて、一家でカナダのオンタリオ州ブラントフォードへ移った。翌1871年、ベルはボストンの聾学校に招かれて視話法を教え始め、1873年にはボストン大学で発声の仕組みを教える教授になった。

両親と兄弟 (1852年)
両親と兄弟 (1852年)Wikimedia Commons Gilbert H. Grosvenor Collection, Prints and Photographs Division, Library of Congress, USA · Public domain

教え子の中に、5歳のとき猩紅熱で聴力を失ったメイベル・ハバードがいた。彼女の父ガーディナー・ハバードは有力な弁護士で、もう一人の聾の教え子の父で皮革商のトマス・サンダースとともに、ベルの研究に資金を出した。二人の狙いは、1本の電線で何通もの電信を同時に送る装置だった。電信会社にとって大きな価値のある発明である。

だがベルの頭の中には、もっと大きな夢があった。声そのものを電気で送ることである。声の震えをそのまま電流の強弱に写し取れば、電線の向こうで同じ震えを作り直せるはずだ。1875年6月2日、助手のトマス・ワトソンが、隣の部屋で装置の振動板に引っかかったばねをはじいたとき、ベルの側の受信機から、かすかにその音が聞こえた。電流が音の形をそのまま運んだのである。

ベルと聾学校の生徒および先生たち(1883年、ワシントンD.C.にて)
ベルと聾学校の生徒および先生たち(1883年、ワシントンD.C.にて)Wikimedia Commons Title transcribed from caption list in album. In album: Photographs of Alexander Graham Bell : Selected by him for prese · Public domain

1876年2月14日、ベルの特許の申請が特許局に出された。同じ日、発明家イライシャ・グレイも、同じような仕組みについての書類を出していた。どちらが先だったかはのちに長い争いになったが、3月7日、特許はベルに与えられた。その3日後の3月10日、ベルは送話器に向かって、ワトソン君、来てくれ、用がある、と呼びかけ、別の部屋のワトソンが受話器からその言葉を聞き取った(ベルの電話)。

1876年の夏、アメリカの独立100周年を記念するフィラデルフィアの万国博覧会に、ハバードの奔走で電話が展示された。審査員たちが疲れて引き上げかけたとき、前年にボストンのベルの聾学校を見学していたブラジル皇帝ペドロ2世が彼に気づいて声をかけた。皇帝は受話器を耳に当て、聞こえてくる声に驚きの声を上げた、と伝えられる。同席したイギリスの物理学者ケルヴィン卿も、これは驚くべきものだと認めた。

グラハム・ベル自ら電話機で話す様子 (1876年)
グラハム・ベル自ら電話機で話す様子 (1876年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author ; film commissioned by AT&T. · Public domain

1877年7月、ベル電話会社が設立された。その2日後、ベルはメイベルと結婚し、結婚の贈り物として自分の持ち株のほとんどを彼女に譲った。新婚旅行で渡ったイギリスでは、翌年、ヴィクトリア女王の前で電話を実演した。電話は急速に広まり、各地に交換局ができて、多くの女性が電話交換手として働くようになった(電話交換手)。ベルの特許をめぐっては、自分のほうが先に発明したと主張する人々や会社との訴訟が600件ほども起こされたが、ベルの側はすべてに勝った。のちに史上最も価値のある特許と呼ばれるゆえんである。

ベル自身は、会社の経営には深く関わらず、研究に戻った。1880年、電線を使わず、光線に音を乗せて送る「フォトフォン」を作り、自分の最も偉大な発明だと語った。光で情報を送るという考えは、100年後の光ファイバー通信の先駆けと言える。1881年7月、ガーフィールド大統領が銃で撃たれると、体内の弾を探すために、電気で金属を探る装置を急ごしらえした。だが大統領のベッドの金属のばねに反応してしまい、弾は見つからず、大統領は9月に死んだ。同じ年、生まれたばかりの息子を呼吸困難で亡くしたあとには、体を外から包んで呼吸を助ける装置の原型を考えた。

ベルの電話の特許(1876年3月)
ベルの電話の特許(1876年3月)Wikimedia Commons U.S.P.T.O. · Public domain

晩年の拠点は、カナダのノヴァスコシア州ケープ・ブレトン島のバデックに建てた夏の別荘だった。彼は空を飛ぶことに夢中になり、1907年、若い技術者グレン・カーティスらと飛行の実験の会を作った。ライト兄弟の初飛行から間もない時期である。水の上を翼で浮いて走る水中翼船も作り、1919年、時速114キロという当時の水上の速度記録を出した。科学を広く伝えることにも熱心で、ナショナル・ジオグラフィック協会の設立に関わり、のちに会長も務めた。

耳の聞こえない人々の教育は、生涯の仕事であり続けた。1887年、目も耳も不自由な6歳の少女ヘレン・ケラーを両親が連れてきたとき、ベルはボストンのパーキンス盲学校に相談するよう勧めた。そこから家庭教師アン・サリヴァンが送られ、ヘレンが言葉を知る日が来る(ヘレン・ケラーが言葉を得た日)。ヘレン・ケラーは自伝をベルに献げ、二人の交友は生涯続いた。一方でベルは、手話よりも読唇と発声を教えることを強く主張し、聾者の結婚や手話の使用にも否定的な考えを述べた。この点は、のちに聾者の側から厳しく批判されている。

1892年、ニューヨーク-シカゴ間の長距離電話回線開通式典でのベル
1892年、ニューヨーク-シカゴ間の長距離電話回線開通式典でのベルWikimedia Commons E. J. Holmes · Public domain

1922年8月2日、バデックの別荘で死んだ。75歳だった。8月4日の埋葬の時刻には、彼を悼んで、アメリカとカナダの電話がすべて1分間、通話を止めた。自分の書斎には電話を置かなかった、という話が伝わっている。仕事のじゃまになるから、というのがその理由だった。

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