縄文土器
概要
世界最古級の土器。農耕を始めていない狩猟採集の集団が作っており、土器=農耕という順序は成り立たない。
場所
37.00°N 139.50°E · 日本
本文
1877年、アメリカの動物学者エドワード・モースは、横浜から東京へ向かう汽車の窓から、線路わきの崖に貝殻が積み重なっているのを見つけた。東京の大森貝塚である。発掘で出てきた土器には、縄を転がしてつけた模様があり、モースはこれを英語で「縄目の模様の土器」と呼んだ。それが訳されて「縄文」という言葉になり、やがてこの土器を使った時代全体が縄文時代と呼ばれるようになった。
縄文時代は、氷期が終わって気候が暖かくなっていくころに始まり、北部九州で水田の稲作が始まる紀元前1千年紀まで、1万年以上続いた。その長い時代を通じて作られた土器は、形も模様も時期と地域によって大きく変わる。研究者はこれを草創期・早期・前期・中期・後期・晩期に分けている。
日本列島で最も古い土器のかけらの一つは、青森県外ヶ浜町の大平山元遺跡から出た。縄の模様の無い素朴な土器で、こびりついた炭化物の年代を測ると、いまから1万6000年あまり前という値が出た。まだ氷期の寒さが残る時代である。同じころ、あるいはさらに古い土器は、中国南部の洞窟遺跡や、ロシアのアムール川流域からも見つかっている。東アジアは、世界で最も早く土器が作られた地域だった。
この発見は、かつての教科書の筋書きを揺るがした。西アジアを中心に組み立てられた考え方では、人類はまず農耕を始め、村に定住し、穀物を貯え、煮炊きするために土器を作った、という順序になっていた。農耕の始まりと土器の始まりは、セットで「新石器時代」の目印とされた(農耕の始まり)。実際、西アジアでは、麦の栽培が始まってから土器が作られるまでに長い時間がかかっている。ところが東アジアでは、農耕のはるか前に、狩猟と採集で暮らす人々が土器を作っていた。

何のための土器だったのか。手がかりは、土器の内側に残った焦げや脂である。日本の最古級の土器に残った脂肪の成分を分析した研究では、魚や貝など水辺の食べ物を煮た跡が見つかった。土器があれば、ものを水で長く煮ることができる。どんぐりやトチの実のように、生では渋くて食べられない木の実も、煮てあく抜きをすれば食べられる。貝や魚は煮れば汁ごと食べられ、固い肉も柔らかくなる。食べられるものが増えれば、同じ土地で暮らせる人の数が増え、季節ごとに移り住まなくても一か所に長くとどまれるようになる。
暖かくなるにつれて、列島には落葉広葉樹の森が広がり、木の実や獣、川を上る鮭、海辺の貝に恵まれた。縄文の人々は竪穴住居の村を作り、貝塚を残し、死者を村の中に葬った。青森の三内丸山遺跡のように、大きな建物を持ち、長く人が住み続けた集落も現れる(三内丸山の集落)。土器は一つの村で煮炊きの道具として毎日使われ、壊れては作り直された。
縄文の人々は農耕をしなかったと言われるが、植物とまったく無縁だったわけではない。近年の研究では、栗の林を手入れして実を多く取っていたことや、大豆や小豆の祖先にあたる豆を育て、実を大きくしていたことが分かってきた。土器の表面に偶然残った豆の粒の跡を、型を取って調べることで明らかになったものである。水田で稲を作る本格的な農耕ではないが、採集と栽培の境目は、思われていたほどはっきりしたものではなかった。
縄文土器は、実用の道具であると同時に、ほかに例のない造形でもある。中期の東日本、とりわけ新潟の信濃川流域では、口縁から炎が燃え上がるような突起を持つ火焔型土器が作られた。煮炊きには不便なほど飾りが大きく、それでも内側には焦げが残っていて、実際に火にかけられていたことが分かる。何のためにそれほどの手間をかけたのか、祭りのための特別な器だったのか、ふだんの器にも思いを込めたのか、答えは出ていない。土偶とともに、縄文の人々の心の中をのぞかせる遺物である。

中期には東日本を中心に人口が増え、遺跡の数が大きく伸びた。その後、気候が少し冷えると遺跡の数は減っていく。人口についてはいくつかの推計があるが、どれも遺跡の数から割り出したもので、幅を持って見る必要がある。
紀元前1千年紀、長江の流域で数千年前に始まっていた稲作が(河姆渡の稲)、朝鮮半島を経て水田の稲作として北部九州に伝わり、弥生時代が始まる。弥生土器は縄文土器に比べて飾りが少なく、米を貯え、煮るのに向いた形をしていた。それでも、東北や北海道では縄文の暮らしの伝統が長く続いた。縄文土器は、農耕の無い社会でも、人は定住し、器を作り、美しさを求めたことを、1万年以上にわたって物語っている。