できごと

河姆渡の稲

Rice at Hemudu
約7000年前
年に諸説あり重要度 5
約7000年前河姆渡
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている約7000年前の版図を描いています。

概要

杭州湾の南で1973年に出た。高床の家、骨の鍬、そして厚さ数十センチの稲の層。長江の下流で、黄河の粟より早く、稲が作られていた。中国の農耕は北の一つの中心からでなく、二つの川で別々に始まった。

場所

河姆渡
29.96°N 121.35°E · 中国・浙江省

本文

1973年、中国東部の浙江省余姚の河姆渡村で、排水のための施設を造る工事の最中に、地中から大量の土器のかけらや動物の骨が出てきた。翌年までと、1977年から翌年にかけての二度にわたる発掘で、そこが約7000年前の大きな集落の跡だと分かった。杭州湾の南岸、海に近い低湿地である。同じころの日本列島は縄文時代の前期にあたり、人びとは土器を作り、狩りと漁と木の実の採集で暮らしていた(縄文土器)。地下水に浸かっていたため、ふつうなら腐って消えてしまう木や植物が、驚くほどよく残っていた。

遺跡は四つの層に分かれ、最も古い第4層は紀元前5000年ごろのものとされる。この層から、稲の籾や茎、葉が厚く堆積した層が見つかった。厚さは場所によって数十センチにも及んだ。籾の多くは形を保っており、なかには籾殻を開けると米粒の形が残るものもあった。調べた研究者たちは、これが野生の稲ではなく、人が育てた稲だと判断した。

河姆渡文化の新石器時代の象牙製鳳凰像
河姆渡文化の新石器時代の象牙製鳳凰像Wikimedia Commons Gary Todd · CC0

稲だけではない。水牛やシカの肩甲骨に柄を付けて作った骨の耜(すき)が、多数出土した。水田を耕したり、溝を掘ったりするのに使われたと考えられている。家は、湿地の上に柱を立てて床を高く上げた高床の建物で、柱と梁は、ほぞとほぞ穴を組み合わせて固定されていた。7000年前の人びとが、金属の道具なしに、この精巧な木組みの技術を持っていたことになる。

暮らしの道具も豊かだった。炭を混ぜて焼いた黒い土器には、豚や稲穂の文様が刻まれている。赤い漆を塗った木の椀は、中国で最も古い漆器の一つとされる。象牙の板には、太陽を挟んで向き合う二羽の鳥が彫られていた。骨で作った笛や、木で枠を組んだ井戸の跡もある。人びとは犬や豚を飼い、魚や亀を獲り、シカを狩った。骨の中には、ゾウやサイのものもあった。当時の長江下流域は、いまよりも暖かく湿った気候だったことが分かる。

この発見は、中国の文明の始まりについての考え方を大きく揺さぶった。それまで、中国の農耕と文明は、北の黄河の流域で始まり、そこから周りへ広がったと考えられていた。黄河の流域で作られていたのは、乾いた土地に向く粟や黍だった。ところが南の長江の下流で、黄河の流域とほぼ同じか、それより古い時代に、まったく別の作物である稲を育てる村があったことになる。中国の農耕は、北と南の二つの中心で、それぞれ独自に始まったのではないか。

その後の発掘で、稲作の始まりはさらに古くさかのぼった。浙江省の上山遺跡では、約1万年前の土器の中に、稲の籾殻が混ぜ込まれていた。長江中流の湖南省の玉蟾岩や彭頭山の遺跡でも、古い時代の稲が見つかっている。いまでは、長江の中流から下流にかけての地域で、1万年ほど前から人びとが野生の稲を集め、長い時間をかけて栽培の稲に変えていったと考えられている。

河姆渡の稲が、どこまで栽培化されていたのかについては、その後、議論が起きた。2000年代に入って、河姆渡やその近くの田螺山遺跡の稲を詳しく調べた研究者たちは、籾の中に野生の稲の特徴を残すものがかなり混じっていることを指摘した。熟しても穂から落ちにくいという栽培の稲の性質が、まだ十分に固まっていなかったというのである。河姆渡の人びとは、稲を育てながらも、木の実や水辺の植物、魚や獣にも多くを頼っていた。稲作だけで暮らす社会になるには、さらに長い時間がかかった。

考古学者の蘇秉琦は、こうした各地の発見を受けて、中国の古代の文化は、満天の星のように各地に散らばって並び立っていた、と説いた。黄河の一つの中心から広がったのではなく、多くの地域の文化が互いに影響し合いながら、やがて一つの文明にまとまっていった、という見方である。長江の下流では、河姆渡の後、紀元前3300年ごろから良渚文化が栄え、巨大な城壁や水利の施設を築き、精緻な玉器を作った。稲作がそれを支えた。

稲作は、長江の流域からさらに広がった。東南アジアへ、そして朝鮮半島や日本列島へ。日本に水田の稲作が伝わったのは、およそ3000年前とされる。朝鮮半島を経て九州の北部に伝わったという説が有力だが、長江の下流から海を渡って直接伝わったとする説もあり、ルートについては議論が続いている。のちの時代には、ベトナムから日照りに強い稲が中国にもたらされ(占城稲の導入)、宋代の人口の増加を支えた。世界の別の場所でも、メソポタミアで麦が、メキシコでトウモロコシの栽培化が、それぞれ独自に始まっていた(農耕の始まり)。人類は、いくつもの土地で別々に、植物を育てることを思いついたのである。

河姆渡の遺跡には、1993年に博物館が開かれ、出土した籾や骨の耜、高床の建物の復元が展示されている。7000年前の米は、いまも籾の形のまま残っている。私たちが毎日食べている米の長い歴史の、最も早い時期の姿の一つである。

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