できごと

World Wide Web の誕生

World Wide Web
AD1989年
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1989年の版図を描いています(40勢力)。

概要

CERNで提案された仕組みが、誰でも情報を出せる世界を作った。印刷術以来の変化になる。

場所

ジュネーヴ
46.20°N 6.14°E · スイス(CERN・国際機関)

関わった人(1)

ティム・バーナーズ=リーAD1955年6月8日–? · 提案

本文

1989年3月、ジュネーヴ郊外の欧州原子核研究機構(CERN)で、一人の研究者が所内向けの提案書を出した。題は「情報管理:一つの提案」。書いたのは34歳のティム・バーナーズ=リーである。上司のマイク・センドールは表紙の余白に「曖昧だが、わくわくする」と書き込んで返したと伝わる。正式な計画として承認されたわけではなく、空いた時間に進めてよい、という程度の扱いだった。

CERNには、世界中の大学や研究所から数千人の研究者が出入りしていた。人は数年で入れ替わり、使う計算機も文書の形式もばらばらだった。ある実験の装置について知りたければ、誰が何を知っているかを人づてにたどるしかない。人が去ると、知識も一緒に消えた。バーナーズ=リーが解こうとしたのは、この散らばった情報をどうつなぐか、という所内の実務の問題だった。

Internet map 1024 - transparent, inverted
Wikimedia Commons The Opte Project · CC BY 2.5

発想そのものに先祖はある。1945年、アメリカの技術者ヴァネヴァー・ブッシュは、文書どうしを連想でたどる机型の機械「メメックス」を構想した。1960年代にはテッド・ネルソンが、文中から別の文書へ飛ぶ仕組みを「ハイパーテキスト」と名づけている。そして通信網のほうは、1969年のARPANETの最初の通信に始まるインターネットが、すでに大学と研究所を結んでいた。1971年には最初の電子メールも送られている。バーナーズ=リーの仕事は、この二つを組み合わせることだった。

1990年の秋、彼は同僚のロバート・カイリューの協力を得て、計画を具体化した。NeXT社の計算機の上で、最初のウェブサーバーと、閲覧と編集を兼ねたブラウザ「ワールドワイドウェブ」を作った。文書を書く約束事(HTML)、文書を受け渡す約束事(HTTP)、文書の住所の書き方(今のURL)の三つが、この時期にそろう。年末には最初のページが動いた。サーバーにした計算機には、「これはサーバーです。電源を切らないで」という貼り紙がしてあったという。

usap.gov のウェブサイト(米国南極計画)
usap.gov のウェブサイト(米国南極計画)Wikimedia Commons United States Antarctic Program · Public domain

新しかったのは技術より設計の考え方だった。中央のデータベースを作らない。どこに何があるかを管理する台帳を持たない。文書は別の文書を一方通行で指すだけでよく、指された側の許しはいらない。その代わり、リンクの先が消えれば、たどった人は行き止まりに出会う。それまでのハイパーテキストの研究では、リンクが切れないことを保証する仕組みが重んじられていた。バーナーズ=リーはそれを捨て、切れることを許した。完全さを諦めたことで、誰でも勝手に足せる、際限なく育つ網になった。

1991年8月、彼はこの仕組みの概要をインターネットの掲示板で公開し、外部の誰でも使えるようにした。最初は物理学者のあいだで広まり、大学の研究所が次々にサーバーを立てた。当時は、ミネソタ大学のゴーファーなど、似た目的の仕組みがいくつもあり、ウェブはその一つにすぎなかった。

ラック搭載型のウェブサーバー(Dell PowerEdge)
ラック搭載型のウェブサーバー(Dell PowerEdge)Wikimedia Commons Rodzilla at English Wikipedia · CC BY 2.5

流れを決めたのは1993年である。4月30日、CERNはウェブの技術を誰でも無償で使えるようにすると文書で宣言した。ほぼ同じころ、ゴーファーを持つミネソタ大学が、営利での利用に使用料を求める方針を示した。研究者も企業も、縛りのないほうを選んだ。もしCERNが特許を取り使用料を求めていたら、ウェブはいまの形にはなっていなかったと、多くの人が考えている。

同じ1993年、アメリカのイリノイ大学の研究所で、学生のマーク・アンドリーセンらが「モザイク」というブラウザを公開した。文章の中に画像を並べて表示でき、操作も易しかった。ウェブは研究者の道具から、誰でも眺められる場所へ変わる。モザイクの開発者たちは翌年ネットスケープ社を作り、その株式公開が、のちのITバブルの崩壊へとつながる投資の熱を呼ぶ。

ティム・バーナーズ=リーの肖像
ティム・バーナーズ=リーWikimedia Commons Web Summit · CC BY 2.0

1994年、バーナーズ=リーはCERNを離れ、アメリカのマサチューセッツ工科大学でウェブの標準を決める団体(W3C)を立ち上げた。自分で会社を作って富を得る道もあったが、選ばなかった。標準を一つの会社が握れば、網が割れると考えたからだとされる。

そこから先は、よく知られている。1995年にはネットで本を売るがネットで本を売り始め、1998年にはリンクで順位をつけるが、ページが互いに張るリンクの数と質から順位をつける検索を始めた。リンクを一方通行で許したウェブの設計が、そのまま検索の材料になった。2001年には誰でも書ける百科事典が、誰でも書き直せる百科事典を始める。2007年のスマートフォンの登場以降、ウェブは机の上から手のひらへ移った。

グーテンベルクの活版印刷の活版印刷が、本を書き写す人の手を離れさせたように、ウェブは情報を出すことを出版社や放送局の手から離した。誰でも、許可を得ずに、世界中から読める場所に文章や写真を置ける。印刷術以来の変化と言われるのは、その点である。

グーテンベルクの活版印刷に関わる図版:Gutenberg press
グーテンベルクの活版印刷Wikimedia Commons International Printing Museum · CC0

30年あまりで、この上に商取引も、政治も、人と人のやり取りのかなりの部分も乗った。ただ、中央を持たないはずだった網は、いまいくつかの巨大な入口に人が集まる形になっている。検索、交流サイト、動画の配信。人はそれらの入口を通ってウェブに入り、その入口の会社が、誰が何を見るかの多くを決める。バーナーズ=リー自身、近年は個人が自分のデータを取り戻す仕組みを提唱し、ウェブの集中に強い懸念を示してきた。それは最初の設計の欠陥というより、設計のあとに起きたことである。台帳を持たない網の上に、誰が台帳を作ったのか。その問いは今も開いたままになっている。

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