人物

ジョージ・スティーブンソン

George Stephenson
AD1781年6月9日 – AD1848年8月12日(享年67)
イギリス重要度 5

概要

炭鉱夫の子。18歳まで字が読めなかった。炭鉱の機関の修理。1814年、機関車ブリュッヘル号。1825年、ストックトン・ダーリントン鉄道のロコモーション号。1829年、息子ロバートとロケット号。1830年、リヴァプール・マンチェスター。線路の幅4フィート8.5インチ(1435ミリ)を決めた。世界の鉄道の6割が、いまもこの幅。「鉄道の父」。

関わったできごと(2)

鉄道の開業AD1825年9月27日 · 当人ロケット号とレインヒルAD1829年10月6日 · 作った

本文

1781年6月9日、イングランド北東部ノーサンバーランドの炭鉱村ワイラムで生まれた。父ロバートは炭鉱の排水ポンプを動かす蒸気機関の火夫で、一家は一間の小屋に住んでいた。学校には行かず、子どものころから牛の番や石炭の選り分けで働いた。14歳で父の助手として機関の火を焚き、17歳で自分の機関を任された。字が読めないことに気づいたのは18歳のときで、夜学に通って読み書きと算数を習った。機関の仕組みを知りたくて、本を読む必要があったからだという。

ジョージ・スティーブンソンの肖像
ジョージ・スティーブンソンの肖像Wikimedia Commons Original uploader was Jan Arkesteijn at nl.wikipedia · Public domain

若いころの彼は、壊れた機関を分解しては組み直し、時計の修理まで請け負って家計を助けた。1802年に結婚し、翌年に一人息子ロバートが生まれたが、妻は1806年に亡くなった。1811年、キリングワースの炭鉱で、誰が手を入れても水をくみ出せなかったニューコメン式のポンプを数日で直してみせ、翌年には炭鉱の機関技師に取り立てられた。字の下手な炭鉱夫が、腕一本で技術者になった。

このころ、炭鉱の石炭は馬が貨車を引いて運んでいた。ナポレオン戦争で馬と飼料が高くなり、蒸気で貨車を引く試みがあちこちで始まっていた。1814年、彼は最初の機関車ブリュッヘル号を作った。名はワーテルローで戦ったプロイセンの将軍から取っている。歯車でレールをかむ方式が多かったなかで、平らな車輪と平らなレールの摩擦だけで30トンの石炭を引いた。翌1815年には坑内の爆発を防ぐ安全灯を作ったが、ほぼ同じころに化学者ハンフリー・デーヴィーも安全灯を発表し、どちらが先かで激しい争いになった(安全灯)。王立研究所の大化学者は、無学な炭鉱夫が自分の着想を盗んだと疑った。地元の炭鉱主たちは彼の側に立ち、謝礼金を集めて贈っている。

ジョージ・スチーブンソン
ジョージ・スチーブンソンWikimedia Commons Public domain

1821年、石炭をティーズ川の港へ運ぶストックトン・ダーリントン鉄道の技師になった。出資者エドワード・ピーズを説き伏せて、馬車鉄道の予定を蒸気機関車も走らせる鉄道に改めさせた。1823年には息子ロバートたちとニューカッスルに機関車工場を開き、世界で最初の機関車の専門工場となった。1825年9月27日、ロコモーション号が石炭の貨車と客車を連ねて走り、蒸気機関車を使う最初の公共鉄道が開業した(鉄道の開業)。ただしこの鉄道では、その後もしばらく馬の引く列車が同じ線路を走っていた。

次はリヴァプール・マンチェスター鉄道だった。港と綿工業の町を結ぶ、旅客と貨物のための本格的な鉄道である。1825年、議会の委員会に呼ばれた彼は、北部なまりの強い言葉と計算の詰めの甘さを突かれて散々な目にあい、法案は一度通らなかった。それでも1826年に主任技師となり、底なしと言われた湿地チャット・モスに、木の枝やヒースを編んで沈めた上へ線路を浮かべるように敷いた。切り通しや高架橋も作り、全長50キロ余りを機関車だけで走る鉄道に仕上げた。

どの機関車を使うかを決めるため、1829年10月に公開の競走が開かれた(ロケット号とレインヒル)。勝ったロケット号は、たくさんの細い管に煙を通して湯を沸かすボイラーと、排気で火を煽る仕掛けを備えていた。設計は息子ロバートと鉄道の幹事ヘンリー・ブースの工夫に負うところが大きい。1830年9月15日の開業式には首相ウェリントン公が来たが、その日、議員ハスキソンがロケット号にはねられて死んでいる。鉄道の時代は、事故の報道とともに始まった。

ロケット号とレインヒルに関わる図版:Rainhill Trials in the Illustrated London News
ロケット号とレインヒルWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

開業の成功で、彼は国中から引っ張りだことなった。1830年代、バーミンガム、ダービー、ヨーク、シェフィールドへ向かう路線を引き受け、ベルギーやスペインの鉄道にも助言した。土木技術者の協会に入るには経歴の論文が要ると言われて腹を立て、1847年に機械技術者の協会を自分で作って初代の会長になった、と伝えられる。爵位の話も断っている。

彼が残した最も長く続くものは、線路の幅である。キリングワースの炭鉱の馬車軌道の幅4フィート8インチに半インチを足した4フィート8インチ半、1435ミリを、自分の敷く鉄道にそのまま使った。グレート・ウェスタン鉄道の技師イザムバード・キングダム・ブルネル(マルク・イザムバード・ブルネルの子)は7フィートの広い幅で、速さも乗り心地もまさっていた。しかし先に広く敷かれていたのはスティーブンソンの幅で、1846年の法律で新しい鉄道はこちらに揃えることになった(線路の幅)。いまも世界の鉄道の6割ほどがこの幅で走る。ローマの戦車の幅から来たという話は、後の作り話である。

スチーブンソンの安全灯とデービー灯(左)
スチーブンソンの安全灯とデービー灯(左)Wikimedia Commons Samuel Smiles · Public domain

晩年はチェスターフィールド近郊のタプトン・ハウスに住み、炭鉱と石灰の事業を営みながら、温室でメロンやパイナップルを育てるのを楽しんだ。1848年8月12日、胸膜炎で亡くなった。67歳だった。息子ロバートは父の死後、メナイ海峡のブリタニア橋など、父より大きな仕事を残している。字を習い直した炭鉱夫は「鉄道の父」と呼ばれ、ジェームズ・ワットの蒸気機関を、地上を走る乗り物に変えた人として記憶された。

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