人物

グリエルモ・マルコーニ

Guglielmo Marconi
AD1874年4月25日 – AD1937年7月20日(享年63)
イタリア重要度 5

概要

ボローニャの地主の子、母はアイルランドのウイスキーの家(ジェムソン)。大学に行かなかった。屋根裏でヘルツの実験を真似て、1895年、2キロ。イタリア政府は興味を示さず、ロンドンへ。1897年、会社。1901年、大西洋。1909年、ノーベル賞。タイタニックの生存者はマルコーニの無線で助かった。1920年代、短波。ファシスト党員、ムッソリーニの上院議員。発明したのは彼でなく(テスラ、ポポフ、ボース)、事業にしたのは彼。

関わったできごと(1)

マルコーニの大西洋横断無線AD1901年12月12日 · 聞いた

本文

1874年4月25日、イタリア北部の町ボローニャで生まれた。父ジュゼッペは土地持ちの名士、母アニーはアイルランドのウイスキー醸造の家ジェムソン家の娘で、駆け落ち同然でイタリアへ嫁いできた人だった。少年は母からイタリア語と英語の両方を学んだ。学校にはなじめず、正規の大学教育は受けなかったが、家庭教師や、近所に住むボローニャ大学の物理学者リーギの講義や蔵書から、電気の知識を吸収した。

グリエルモ・マルコーニの肖像
グリエルモ・マルコーニの肖像Wikimedia Commons Pach Brothers · Public domain

1894年、ドイツの物理学者ヘルツが亡くなり、その死を伝える記事で、空中を伝わる電波の実験のことを知った。ジェームズ・クラーク・マクスウェルが理論で予言した電磁波を(電磁場の理論)、ヘルツは実験室の中で確かめていた。20歳のマルコーニは、この見えない波を使えば電線なしで信号を送れるはずだと考え、郊外の別荘の屋根裏部屋で実験を始めた。送信機と受信機に高い柱状のアンテナと地面への接続を加えると、届く距離は少しずつ伸びた。1895年、受信機を持たせた兄を家の裏の丘の向こうへ行かせ、信号が届いたら銃を撃って知らせるように頼んだ。2キロほど先から、銃声が響いた。

彼はイタリア政府の役所に手紙を書いて支援を求めたが、まともな返事はなかった。1896年2月、母とともにロンドンへ渡った。海運と海軍の大国イギリスなら、船と陸を結ぶ通信の価値が分かると母が考えたとされる。イギリスの郵政省の技師長プリースが若者の装置に興味を示し、実験を支援した。この年、無線電信の特許を取り、翌1897年には会社を設立した。のちのマルコーニ社である。ソールズベリー平原で、ブリストル海峡を越えて、そして1899年には英仏海峡を越えて信号を送り、届く距離は数十キロへと伸びた。1898年には、ヨットレースの様子を沖の船から新聞社へ無線で伝え、話題をさらった。

イタリア時代の送信機 (1895年)
イタリア時代の送信機 (1895年)Wikimedia Commons Guglielmo Marconi · Public domain

当時の学者の多くは、電波は光と同じようにまっすぐ進むので、地球の丸みに遮られて遠くへは届かないと考えていた。マルコーニは、理屈よりも実験を信じた。1901年12月12日、イングランド南西端のポルドゥーに巨大なアンテナを建て、モールス符号の「S」、つまり三つの短い点を送り続けさせた。大西洋の向こう、カナダのニューファンドランド島で、凧で吊り上げたアンテナにつないだ受話器から、彼はその点を聞き取ったと発表した。雑音の中で本当に聞こえたのかを疑う声もあったが、翌年、大西洋を渡る船の上で、記録装置を使って遠くの信号を受け取ることに成功した。電波が地球の丸みを越えて届くのは、上空にある電気を帯びた層が電波を跳ね返すためだと、後に分かった。

1909年、ドイツの物理学者ブラウンとともにノーベル物理学賞を受けた。その翌年、ロンドンで妻を殺した医師がカナダ行きの船に変装して乗り込んだとき、不審に思った船長が無線で通報し、医師は到着した港で逮捕された。無線が犯人を捕らえた最初の事件として、世界中に報じられた。

1912年4月、豪華客船タイタニック号が北大西洋で氷山にぶつかって沈んだ(タイタニックの沈没)。マルコーニ社の通信士が打ち続けた救難の電信を受けた客船カルパシア号が駆けつけ、700人あまりを救った。イギリスの郵政大臣は、救われた人々はマルコーニという一人の人物によって救われたのだ、と述べたと伝えられる。この事故の後、船は昼夜を問わず無線を聞き続けることが国際的な取り決めとなった。

タイタニックの沈没に関わる図版:Stöwer Titanic
タイタニックの沈没Wikimedia Commons Willy Stöwer · Public domain

第一次世界大戦中はイタリア軍の無線を指揮し、戦後のパリ講和会議にはイタリアの代表団の一員として加わった。その後は、船を改造した実験室ヨット「エレットラ」で地中海を巡りながら、波長の短い電波の研究に打ち込んだ。短波を束ねて特定の方向に送る方式を開発し、イギリス本国と遠い植民地を結ぶ通信網に採用された。短波の研究は、のちのラジオ放送や、さらに短いマイクロ波の利用へとつながっていく。

一方で、彼は1923年にムッソリーニのファシスト党に入り(ベニート・ムッソリーニ)、侯爵の位を与えられ、新たに作られたイタリア王立アカデミーの会長を務めた。私生活では、1905年にアイルランドの貴族の娘と結婚したが、のちに離婚し、教会に結婚の無効を認めさせて、1927年にローマの貴族の娘と再婚した。ムッソリーニがその結婚の証人となった。

渡英直後の頃の1GHz送信機とその受信機 (1896-97年)
渡英直後の頃の1GHz送信機とその受信機 (1896-97年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1937年7月20日、ローマで心臓発作のため63歳で亡くなった。翌日の葬儀のあいだ、世界中の無線局が2分間、送信を止めて彼を悼んだ。電波が発明されてから、空がこれほど静かになったことはなかったと言われる。

無線を発明したのは誰か、という問いには、簡単に答えられない。電磁波の理論はマクスウェル、実証はヘルツが行い、電波を検出する装置はフランスのブランリーやイギリスのロッジが改良した。ロシアのポポフやインドのボースも、同じ1890年代半ばに電波を使った実験を公開している。アメリカではニコラ・テスラが早くから無線による送電と通信を唱えていた。1943年、アメリカの最高裁判所は、マルコーニの重要な特許の一部について、先行する発明があるとして無効と判断した。マルコーニが成し遂げたのは、こうした発見を組み合わせ、粘り強い実験で距離を伸ばし、特許と会社と船の通信網によって、世界を結ぶ事業に変えたことだった。モールスの電信が線でつないだ世界を、彼は線なしでつないだのである。

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