ノク文化の製鉄
概要
西アフリカで独自に鉄が作られた。等身大のテラコッタ像も残る。
場所
9.48°N 7.95°E · ナイジェリア中部
本文
1943年、ナイジェリア中部の高原にあるノクという村の近くで、錫の採掘をしていた鉱夫たちが、土の中から焼き物の人の頭を掘り当てた。それを見たのが、植民地政府で働いていたイギリスの考古学者バーナード・ファッグである。似たような焼き物はそれ以前にも見つかっていたが、ファッグはそれらが同じ一つの古い文化に属することに気づき、村の名をとってノク文化と名づけた。
ノク文化は、ナイジェリア中部のニジェール川とベヌエ川の合流点の北に広がっていた。近年の放射性炭素による年代測定では、人々がこの地に住みはじめたのは紀元前1500年前後にさかのぼり、焼き物の像が作られたのは紀元前900年ごろから紀元後の数世紀までとされる。最も栄えたのは紀元前500年ごろから紀元後の初めにかけてである。人々は丘の上や斜面に住み、トウジンビエなどの穀物を育てていた。

ノク文化の名を知らしめたのは、焼き物の人物像である。多くは粘土を積み上げて中を空洞にした像で、等身大に近い頭部もある。目は三角形やD字形に大きく彫られ、瞳には穴があけられている。鼻と唇、耳にも穴があり、焼くときの空気の抜け道だったとも言われる。髪型は一体ごとに違い、編み込みや髷、飾りが細かく作り分けられ、首飾りや腕輪をつけた像もある。ひざを抱えて座る姿、病気の症状を思わせる姿もある。これらは、サハラ以南のアフリカで知られる最も古い大型の人物彫刻の一つである。
もう一つの特徴が、鉄である。ノクの遺跡からは、鉄を溶かして取り出した炉の跡と、鉄の滓、鉄の道具が見つかっている。タルガという遺跡の製鉄炉は、紀元前の数世紀にさかのぼるとされる。鉄が広まるで見るように、鉄は西アジアやアナトリアで早くから作られ、北アフリカにはフェニキア人やエジプトを通じて伝わった。サハラの南にある西アフリカで、これほど早くから鉄が作られていたことは、大きな驚きだった。

その鉄の技術がどこから来たのかについては、決着していない。サハラを越えて北から伝わったとする説がある一方で、西アフリカやアフリカ中部で独自に始まったとする説も根強い。ノクやその周辺の炉は、地中海の世界の炉とは形が違い、ニジェールや中央アフリカ共和国などでも古い製鉄の跡が見つかっていることが、独自説の根拠とされる。ただし年代の測り方には幅があり、どちらとも言い切れない。
いずれにしても、西アフリカの多くの地域では、エジプトやヨーロッパのように青銅器の時代を長く経ることなく、石の道具から鉄の道具へと移った。鉄の斧や鍬は森を切り開き、畑を広げることを容易にした。鉄を扱う技術は、アフリカ中部から南部へ広がっていったバントゥー系の拡散とも結びついていたと考えられている。

ノクの像が、何のために作られたのかは分かっていない。祖先をまつるため、墓に供えるため、あるいは豊作を祈る儀式のためなど、さまざまな説があるが、決め手はない。分からない理由の一つは、多くの像が盗掘によって掘り出され、どこにどのような状態で埋まっていたのかの記録が失われたことにある。1990年代以降、ノクの像は欧米の美術市場で高値で取引されるようになり、ナイジェリア中部では組織的な盗掘が広がった。遺跡は掘り荒らされ、像は国外へ持ち出された。
近年は、ドイツの大学などとナイジェリアの研究者による共同の発掘が進み、盗掘を免れた遺跡から、像が埋まっていた状況や、人々の食べ物、暮らしの手がかりが少しずつ分かってきた。像の一部は意図的に壊されたうえで埋められていたことも明らかになっている。また、市場に出回る像の中には、近年作られた贋作が数多く混じっていることも指摘されている。

ノク文化はやがて姿を消し、その理由もはっきりしない。ただ、焼き物の像の表現は、のちに同じナイジェリアで栄えたイフェの写実的な頭像や、ベニン王国の青銅器につながる伝統の源流の一つとみる研究者もいる。アフリカの古代は文字の記録が乏しく、考古学だけが頼りになる。その考古学の証拠が市場の需要によって失われていくことは、ノク文化が現代に突きつけている問題でもある。