できごと

ロケット号とレインヒル

Rainhill Trials
AD1829年10月6日
重要度 4
ロケット号とレインヒルに関わる図版:Rainhill Trials in the Illustrated London News
Rainhill Trials in the Illustrated London News Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

概要

リヴァプール・マンチェスター鉄道が機関車を公募した。5台。スティーブンソン父子のロケット号が、多管ボイラーで時速47キロ。翌年の開通式で国会議員ハスキソンが轢かれて死んだ。世界最初の鉄道の死者。鉄道は、それから20年で、イギリスに1万キロ。

場所

レインヒル
53.42°N -2.76°E · イギリス・マージーサイド

関わった人(1)

ジョージ・スティーブンソンAD1781年6月9日–AD1848年8月12日 · 作った

本文

リヴァプール・マンチェスター鉄道は、綿花を陸揚げする港と、それを糸と布にする工場の町をつなぐために計画された。運河の運賃の高さと遅さに業を煮やした商人たちが出資し、ジョージ・スティーブンソン(ジョージ・スティーブンソン)が技師として線路を引いた。全長はおよそ56キロ。マンチェスターの手前にはチャット・モスという深い泥炭の沼があり、スティーブンソンは木の枝や草を敷き詰めて線路を浮かべるようにして越えた。四年前に開業した炭鉱の鉄道(鉄道の開業)と違い、旅客も貨物もすべて機械の力で運ぶ、最初の都市間鉄道になるはずだった。

ところが完成が近づいても、取締役会は列車を何で動かすかを決められなかった。走る蒸気機関車はまだ遅く、故障が多いと見られていた。線路の脇に固定した蒸気機関を何か所も置き、ケーブルで列車を引くほうが確かだという技師の報告もあった。そこで1829年4月、会社は機関車の競技会を開くと発表した。賞金は500ポンド。重さは6トン以下で、自分の重さの3倍の列車を引いて時速10マイル(約16キロ)以上で走り、煙を出さないこと、などが条件だった。

レインヒル・トライアルに出走した馬力機関車「サイクロピード」
レインヒル・トライアルに出走した馬力機関車「サイクロピード」Wikimedia Commons Elijah Galloway · Public domain

1829年10月6日、リヴァプールの東、レインヒルの平らな直線区間で競技が始まった。会場には1万人を超える見物人が集まったと伝えられる。出場したのは5台である。ロンドンのブレイスウェイトとエリクソンのノヴェルティ号は、軽くて速く、時速45キロ近くを出して観客を沸かせたが、送風管やボイラーの継ぎ目が次々に壊れた。ハックワースのサンズ・パレイユ号は重さの条件を超えたうえ、シリンダーにひびが入った。パーセヴェランス号は会場へ運ぶ途中で傷み、時速10キロ足らずしか出せずに棄権した。サイクロペッド号は機関車ではなく、車体に乗せた馬が踏み車を踏んで進む仕掛けで、馬が床を踏み抜いて終わった。

残ったのが、スティーブンソンと息子ロバートがニューカッスルの工場で造ったロケット号である。重さは4トンあまり、車体は黄色に塗られ、煙突は白かった。工夫は三つあった。一つは多管式のボイラーで、火室の熱い煙をボイラーの水の中に通した25本の銅の管に流し、水に触れる面を大きくして蒸気を速く作った。同じ考えは同じころフランスのセガンも試しており、会社の幹部ヘンリー・ブースの提案だったとも言われる。二つめは、シリンダーから出た蒸気を煙突に吹き込んで火室の空気を引き、火力を強める仕組み。三つめは、斜めに置いたシリンダーが動輪を直接回す配置である。ロケット号は区間の往復を決められた回数こなし、列車を引いて平均時速19キロ、単独では最高47キロを記録した。条件をすべて満たしたのはロケット号だけで、賞金と、会社の機関車の注文を手にした。

レインヒル・トライアルの機関車「ノヴェルティ」
レインヒル・トライアルの機関車「ノヴェルティ」Wikimedia Commons Public domain

1830年9月15日、鉄道は盛大な開通式を迎えた。ウェリントン首相をはじめ貴族や議員を乗せた8本の列車が、リヴァプールを出発した。途中のパークサイドで給水のために停まったとき、リヴァプール選出の議員ウィリアム・ハスキソンが線路に降り、首相と言葉を交わそうと客車に歩み寄った。そこへ隣の線路をロケット号が近づいてきた。ハスキソンは逃げ遅れて脚を轢かれ、スティーブンソンが自ら運転する機関車で近くの牧師館へ運ばれたが、その夜に死んだ。旅客鉄道の最初の犠牲者として広く知られる事故である。それでも鉄道は翌日から営業を始め、たちまち運河と乗合馬車の客を奪った。

ここから鉄道の時代が一気に開けた。イギリスの線路は、1830年には150キロほどだったのが、1840年には2400キロ、1850年には1万キロに達した。1840年代の半ばには、各地で線路の計画が乱立して株が暴騰し、やがて暴落する「鉄道狂時代」が来た。駅ごとにばらばらだった時刻を合わせる必要から、ロンドンの時刻に揃える動き(鉄道と標準時)も鉄道から始まった。ヴィクトリア女王は1842年に初めて列車に乗っている。1846年には法律で、スティーブンソンの使った4フィート8.5インチ(1435ミリ)が新しい線路の標準の軌間と定められ、イザムバード・キングダム・ブルネルがグレート・ウェスタン鉄道に用いた7フィートの広い軌間は、のちに姿を消した。この幅はもともと北イングランドの炭鉱の馬車鉄道の幅で、いまも世界の鉄道の多くが同じ幅で走っている。

鉄道と標準時に関わる図版:Exchangeclock
鉄道と標準時Wikimedia Commons Rodw at English Wikipedia · Public domain

ロケット号の現物は残っている。ただし営業で使われるうちに何度も改造され、シリンダーの角度も変えられたため、1829年にレインヒルを走った姿とは違う。当時の姿は、復元した模型で見ることができる。

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