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Person / 人

畢昇

Bi Sheng
AD970年頃 – AD1051年頃(享年81・推定)
北宋重要度 4

概要

職人。生涯はほとんど分からない。沈括『夢渓筆談』の記述だけが同時代の記録で、そこに「慶暦年間、布衣の畢昇が活版を作った」とある。膠泥の活字、鉄板、松脂と蝋の接着、二枚の板を交互に使って途切れなく刷る方法。彼の死後、活字は沈括の甥たちが受け継いだ、と同書は書く。1990年、湖北で「畢昇」の名のある墓碑が見つかったが、同一人物かは分からない。

関わったできごと(1)

畢昇の活字AD1045年頃 · 作った

本文

記録は、一つしかない。

沈括(1031〜95年。北宋の官僚、科学者、『夢渓筆談』の著者)が、1088年頃に書いた随筆の中の、200字ほど。

「慶暦中(1041〜48年)、布衣の畢昇、又た活板を為(つく)る」。

「布衣」は、官位のない庶民のこと。つまり、名前と、身分と、作ったものと、その方法だけが記録された。生年も、没年も、どこの人かも、書かれていない。

沈括の記述の最後に、こうある。「昇死して、其の印は予の群従(甥たち)の得る所と為り、今に至るまで宝蔵す」。

畢昇が死んだとき、その活字は、沈括の一族の若い者が手に入れて、大切に保管している——沈括は1088年頃にそう書いている。ということは、畢昇は、その少し前に死んだ人で、沈括の家と何らかの接点があった(同じ杭州の周辺にいたか)と推測できる。それだけ。

技術の要点。

(1)材料。膠泥(粘り気のある土)。木でなく土を選んだ理由を、沈括は書いている。木は木目に粗密があり、水を吸うと高さが揃わなくなり、接着の脂に粘って外れにくい。焼いた土は、火であぶれば脂が落ちて、汚れない。

(2)版。鉄の板に、松脂・蝋・紙の灰を混ぜたものを敷く。その上に鉄の枠を置いて、活字を並べる。火であぶって温めると、下の脂が溶ける。平らな板で上から押さえると、活字の面が揃う。冷えると固定される。刷り終えたら、また温めて、活字を外す。

(3)能率。二枚の版を交互に使う。一枚を刷っている間に、もう一枚を組む。「更互に之を用うれば、瞬息にして就(な)るべし」。

(4)活字の管理。よく使う字は20個以上作る。使わない字は、紙で標をつけて、韻ごとに木の格子に収める。珍しい字は、その場で彫って、藁火で焼けば、すぐできる。

(5)限界も書いてある。「若し止だ二、三本を印するのみならば、未だ簡易と為すべからず。若し数十百千本を印するに至れば、則ち極めて神速なり」。

漢字の活字印刷が中国で主流にならなかったのは、この最後の点と関係がある。中国の出版は、版木を彫って保管し、注文に応じて少しずつ刷るのが普通だった(在庫を持たない)。版木は100年以上もつ。数万種の活字を用意する費用と手間に見合う仕事は、限られていた。

それでも、活字は使われ続けた。元の王禎(1298年)は木活字6万個を作り、回転する円卓に韻ごとに並べて、探しやすくした(『造活字印書法』に記録がある)。明の華燧(1490年)と安国は銅活字。清の内府は、1726年に銅活字で『古今図書集成』(1万巻)を刷り、1773年に木活字25万個で『武英殿聚珍版叢書』を刷った。

朝鮮では、金属活字が国家事業になった。1234年『詳定古今礼文』(記録のみ)、1377年『白雲和尚抄録仏祖直指心体要節』(現存する世界最古の金属活字本。フランス国立図書館蔵)。1403年、朝鮮太宗が鋳字所を設けた(癸未字)。1446年の訓民正音(ハングル)と組み合わされて、活字が生きた。

1990年、湖北省英山県で、「畢昇」の名と、皇祐4年(1052年)の日付を刻んだ墓碑が見つかった。同一人物だとする研究者と、慎重な研究者がいる。決着していない。