『斉民要術』
概要
北魏の役人が、農業、園芸、養蚕、畜産、醸造、料理を10巻92篇に書いた。現存する中国最古の農書。「食べ物が足りなければ礼儀はない」。輪作、接ぎ木、酒と酢と醤油の作り方、羊の飼い方。のちの中国の農書は、これを手本にした。
場所
36.69°N 118.48°E · 中国・山東省
関わった人(1)
賈思勰著者本文
北魏は、北方の遊牧の民である鮮卑の拓跋氏が華北に建てた国である。5世紀の末、孝文帝は都を洛陽に移し、鮮卑の服や言葉をやめさせて、漢人の制度に合わせる改革を進めた(孝文帝の洛陽遷都と漢化)。牧畜の民と農耕の民が、同じ国の中で暮らしを混ぜ合わせていった時代だった。その北魏の末から東魏の初めにかけて、一人の地方官が、農業と暮らしの技術を一冊にまとめた。賈思勰の『斉民要術』である。
賈思勰の生涯は、ほとんど分かっていない。本の題に添えられた肩書から、高陽郡の太守を務めたことが知られるだけである。いまの山東省のあたりの出身とされ、本の中には山東の地名や作物がよく出てくる。書かれたのは533年から544年のあいだと考えられている。全10巻、92の篇から成り、本文と注を合わせて11万字ほどになる。「斉民」は普通の民、「要術」は大切な技術を意味する。皇帝や貴族のためではなく、民の暮らしを支える技術の本だった。

序文で賈思勰は、古い書物の言葉を引いて、倉に穀物が満ちてはじめて人は礼儀を知る、と述べる。そして、経書や古い記録から抜き出し、民間の歌やことわざも拾い、年老いた農民に尋ね、自分で試して確かめた、と書いている。田を耕すことから始まり、酢や塩辛を作ることで終わるまで、暮らしに役立つことは書き漏らさなかったという。
中身は驚くほど具体的である。最初の巻は、土の耕し方、種の選び方と保存の仕方、そして華北の主食だった粟から始まる。続いて麦、稲、豆、麻、瓜や野菜、果樹、桑と養蚕、竹や木の育て方。同じ畑に毎年同じ作物を植えず、豆の後に粟を植えるといった作物の順番の工夫や、梨の接ぎ木の仕方、乾いた華北の土の湿り気を逃がさない耕し方が、季節ごとの手順として書かれている。牛や馬、羊、豚、鶏、魚の飼い方、牛馬の良し悪しの見分け方も詳しい。

羊の篇には、作者自身の失敗が書かれている。かつて羊を200頭飼ったが、冬の飼い葉を十分に用意しなかったため、飢えと病でほとんどを死なせてしまった。それで羊飼いに教えを請い、冬の飼料をどれだけ蓄えればよいかを学んだという。書物の知識をなぞるだけでなく、自分でやって失敗したことを正直に書いた点に、この本の人柄が表れている。
後半の巻は、食べ物の作り方にあてられている。酒を造るための麹の作り方と、数十種類の酒の造り方。酢の造り方は20種類を超える。大豆を発酵させた醤(ひしお)や、黒い豆を発酵させた豉、肉や魚の塩辛と干物。乳を固めた酪や、その脂を集めた酥のように、鮮卑など北方の民が持ち込んだ乳の食べ物もある。焼き物、煮物、蒸し物、膾、さまざまな麺や餅の料理も並ぶ。遊牧の民の食と農耕の民の食が混じり合った、北朝の台所の記録である。日本の醤油や味噌の遠い祖先にあたる発酵の技術も、ここに書きとめられている(醤油)。
この本には、もう一つの値打ちがある。前漢の農書『氾勝之書』や、後漢の暮らしの暦『四民月令』など、すでに失われた古い書物を多く引いていることである。それらの書物はいまでは、『斉民要術』に引かれた部分だけが残っている。
『斉民要術』は書き写されて読み継がれ、北宋の時代には朝廷が版木で刷って役人に配った。中国の本国では古い版が失われていったが、日本には宋の刷本の一部や鎌倉時代の写本が伝わったとされ、もとの姿を知る手がかりになっている。明の徐光啓がまとめた大部の農書『農政全書』も、この本を多く引いた。日本では1697年、宮崎安貞が中国の農書に学び、自分で各地を歩いて確かめた『農業全書』を著し、江戸時代の農業の手引きとして広く読まれた。
作物の作り方から酒や酢の仕込み、家畜の病の手当てまで、1500年前の一人の地方官が、民の暮らしの技術をまるごと書き残そうとした。いまに残る中国で最も古い完全な農書として、この本は東アジアの農業と食の歴史をたどるときの出発点になっている。