ワットの蒸気機関
概要
復水器を分けて燃料を大幅に減らした。既にあった蒸気機関が、ここで工場に置ける道具になる。
場所
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド
関わった人(1)
ジェームズ・ワットAD1736年–AD1819年 · 当人本文
蒸気機関はジェームズ・ワットの発明ではない。1712年にニューコメンの蒸気機関が動き出してから半世紀、イギリスの炭鉱では蒸気で水を汲み上げる機械が使われていた。坑道が深くなるほど水が湧き、馬で汲むのでは追いつかなくなっていたからである。
ニューコメンの機関の弱点は、燃料を食いすぎることだった。シリンダーに蒸気を入れ、そこへ冷たい水を吹き込んで蒸気を水に戻すと、中が真空に近くなり、大気の重みでピストンが押し下げられる。ところが次の一往復のためには、冷えたシリンダーをもう一度蒸気で温め直さなければならない。温めては冷やす。その繰り返しで、熱の大半が捨てられていた。炭鉱なら売り物にならない屑の石炭をくべればよかったが、石炭を買って運ぶ場所では採算が合わなかった。

ワットはグラスゴー大学で実験器具を作る職人として働いていた。1763年から翌年にかけて、大学が持っていたニューコメン機関の模型の修理を頼まれ、なぜこれほど蒸気を食うのかを調べ始めた。答えに行き着いたのは1765年の春、日曜日にグラスゴーの緑地を歩いていたときだったと、本人が後に語っている。冷やす場所をシリンダーから切り離せばいい。別の容器(復水器)に蒸気を導いてそこで冷やせば、シリンダーは熱いままでいられる。
考えついてから売れる機械になるまでには、10年かかった。最初の後ろ盾だった鉄工業者ジョン・ローバックのもとで1769年に特許を取ったが、ローバックはまもなく破産する。権利を引き継いだのが、バーミンガムで金属製品の工場を営んでいたマシュー・ボールトンだった。ボールトンは1775年に議会に働きかけて特許の期限を1800年まで延ばさせ、ワットをバーミンガムに呼んだ。
もう一つの壁は、精度だった。ピストンとシリンダーのすき間から蒸気が漏れれば、復水器の効果は消える。この問題を解いたのは、大砲の砲身をくり抜く機械を作った製鉄業者ジョン・ウィルキンソンである。彼の機械で削ったシリンダーは、当時としては驚くほど真円に近かった。1776年、最初の実用機が炭鉱の排水とウィルキンソンの製鉄所の送風に使われ始めた。
ボールトン・アンド・ワット商会は、機械そのものより、節約した燃料で稼いだ。同じ仕事をするニューコメン機関と比べて浮いた石炭代の3分の1を、毎年の使用料として受け取る契約である。燃料はニューコメン機関の4分の1ほどで済んだとされ、客はそれでも得をした。
工場を変えたのは、その後の改良だった。ピストンの往復を車輪の回転に変える仕掛け(太陽と惑星の歯車)を1781年に、ピストンの両側から蒸気で押す複動式を1782年に特許にした。回転する力を出せるようになって、蒸気機関は水を汲む機械から、紡績機や織機、製粉の石臼を回す動力になった。それまで工場は水車を回すために川沿いに建てるしかなかったが、石炭さえ運べれば町の中にも建てられるようになった。機関の力を客に説明するために、ワットは馬何頭分にあたるかという「馬力」の単位を定めている。こうして蒸気の動力は産業革命を支える柱の一つになっていく。

一方で、ワットの特許は他の技術者の手を縛ったとも批判される。ワットは爆発の危険を嫌って高い圧力の蒸気を使うことに反対し、復水器を使う機関はすべて自分の特許に触れるとして、似た機関を作った者たちを訴えた。特許が切れた1800年以降、高圧の蒸気を使う小型の機関が一気に広まり、それが車輪の上に載って鉄道の開業のような鉄道へつながった。特許は発明を引き出したのか、それとも改良を20年遅らせたのか。経済史の研究者のあいだでは、いまも議論がある。
ワットは1800年に事業から退き、1819年に83歳で亡くなった。電力などの仕事率を表す単位「ワット」は、彼の名にちなんでいる。