エクノモス岬の海戦

概要
ローマ330隻、カルタゴ350隻。古代で最大の海戦。ローマはコルウス(渡り板)で敵の船に歩兵を送り込んだ。勝って、レグルスがアフリカに渡り、翌年スパルタの傭兵隊長クサンティッポスに負けて捕虜になった。海で勝ち、陸で負けた。
場所
37.08°N 13.94°E · イタリア・シチリア
本文
紀元前264年に始まった第一次ポエニ戦争は、シチリア島をめぐるローマとカルタゴの争いだった。陸の国ローマは、それまで本格的な艦隊を持っていなかった。だが海を支配するカルタゴに勝つには、海で戦うしかない。ローマは座礁したカルタゴの船を手本に、短い期間で百隻を超える軍船を造り、漕ぎ手を陸の上で訓練したと伝えられる。経験の差を埋めるために考え出されたのが、「カラス(コルウス)」と呼ばれる仕掛けだった。船首に立てた長い渡り板で、先端に鉄の鉤が付いている。敵船に近づくとこれを倒して甲板に食い込ませ、歩兵が板を渡って斬り込む。海戦を陸の戦いに変えてしまう道具である。紀元前260年のミュラエの海戦で、ローマはこの仕掛けで初めての大勝を収めた。
それでもシチリアの戦いは決着がつかなかった。紀元前256年、ローマは戦争の場所を変えることにした。艦隊でアフリカに渡り、カルタゴの本国を直接攻める。本国が危うくなれば、カルタゴはシチリアから兵を引くはずだと考えたのである。この年の執政官、マルクス・アティリウス・レグルスとルキウス・マンリウス・ウルソが、大艦隊を率いてシチリアの南岸を進んだ。
ギリシャ人の歴史家ポリュビオスによれば、ローマの艦隊は軍船330隻、乗り込んだ兵と漕ぎ手は14万人ほど。迎え撃つカルタゴは350隻、15万人あまり。カルタゴ側を率いたのは、ハミルカルとハンノである(このハミルカルは、のちのハンニバルの父ハミルカル・バルカとは別人)。数字が本当なら、古代で最大級の海戦の一つであり、関わった人の数では史上最大の海戦かもしれない。ただし、現代の研究者には、ポリュビオスの数字は大きすぎると見る人も多い。
両軍はシチリア南岸のエクノモス岬の沖、いまのリカタの近くでぶつかった。ローマは艦隊を4つの戦隊に分けた。両執政官の大きな旗艦を先頭に、第1と第2の戦隊が斜めに並んで楔の形を作り、第3の戦隊が騎兵の馬を積んだ輸送船を曳いてその底辺を固め、第4の戦隊が後ろを守る。カルタゴは長い横一列に広がって待ち受けた。戦いが始まると、カルタゴの中央はわざと退き、ローマの先頭の2戦隊を引き寄せた。その間に両翼が回り込んで、遅れて進む第3と第4の戦隊を襲った。こうして、海の上で三つの別々の戦いが同時に起きた。
決め手は、またしてもカラスだった。カルタゴの船は速く、操船も巧みだったが、いったん鉤が食い込めば、あとは兵士の斬り合いになる。中央で敵を退けたローマの先頭の戦隊が引き返して、苦戦していた後ろの戦隊を助け、カルタゴの両翼を挟み撃ちにした。ポリュビオスによれば、ローマ側は24隻を失い、カルタゴは30隻を沈められ、64隻を兵ごと奪われた。
勝ったローマ軍はアフリカに上陸し、カルタゴの領土を荒らした。マンリウスは艦隊と大半の兵を連れて帰国し、レグルスが1万5000の歩兵と500の騎兵とともに残った。レグルスは勝ち進んでカルタゴの近くまで迫ったが、講和の条件をあまりに重くしたため、カルタゴは戦い続けることを選んだ。翌紀元前255年、カルタゴに雇われたスパルタの傭兵隊長クサンティッポスが、象と騎兵を平地で生かす戦い方でローマ軍を打ち破り、レグルスは捕らえられた(レグルスのアフリカ遠征)。
不運は続いた。生き残りを救いに出たローマの艦隊は、帰る途中、シチリア南岸のカマリナの沖で嵐に遭った。ポリュビオスによれば、364隻のうち助かったのは80隻にすぎなかった。溺れた人の数は10万人に近いとも言われ、記録に残る中でも最悪の海難の一つである。海の天候を知る水先案内人の忠告を、執政官が聞き入れなかったためと伝えられる。重いカラスを船首に載せていたことが、船を揺れに弱くしたと考える研究者もいる。
エクノモスで海に勝ち、アフリカの陸で負け、嵐で艦隊を失った。それでもローマは船を造り直し、何度失っても造り続けた。戦争はさらに十数年続き、紀元前241年、アエガテス諸島の沖の海戦でローマが勝って、ようやく終わった。23年に及んだこの戦争で、ローマは陸だけでなく海でも戦える国になり、シチリアを最初の属州とした。カルタゴとの争いは、やがて第二次ポエニ戦争へと続いていく(物語「ポエニ戦争」)。