人物

トーマス・エジソン

Thomas Edison
AD1847年2月11日 – AD1931年10月18日(享年84)
アメリカ合衆国重要度 5

概要

オハイオ。学校は3か月で、母が家で教えた。少年の頃に難聴になった。電信技手から発明家へ。1876年、メンローパークに「発明工場」(世界初の産業研究所)。特許1093件。蓄音機、電球、発電と配電、映画(キネトスコープ)、蓄電池。交流のウェスティングハウスと争い(「電流戦争」)、負けた。「天才は1%の閃きと99%の汗」。

所属

アメリカ合衆国

関わったできごと(2)

蓄音機の発明AD1877年 · 発明したエジソンの白熱電球AD1879年10月22日 · 光らせた

本文

トーマス・アルヴァ・エジソンは、1847年2月11日、アメリカのオハイオ州の運河の町マイランに、7人兄弟の末っ子として生まれた。一家はのちにミシガン州のポート・ヒューロンへ移った。小学校には3か月ほどしか通わなかった。質問ばかりして教師を困らせ、頭が混乱した子だと言われたのを聞いた母ナンシーが怒って学校をやめさせ、元教師だった母が家で教えた、と本人は語っている。母は歴史や文学の本を読ませ、少年はやがて自分で化学の本を見つけ、地下室に薬品の瓶を並べて実験を始めた。

トーマス・エジソンの肖像
トーマス・エジソンの肖像Wikimedia Commons Louis Bachrach, Bachrach Studios , restored by Michel Vuijlsteke · Public domain

子供のころから耳が遠くなり、大人になるとほとんど聞こえなかった。原因は猩紅熱など病気の後遺症とも、少年時代のけがともいわれ、はっきりしない。本人は、余計な話が聞こえないので考えごとに集中できる、と言っていた。

12歳から、鉄道の列車で新聞や菓子を売って歩いた。荷物車の隅に実験の道具を持ち込み、薬品をこぼして火事を出して追い出された、という話も残る。15歳のとき、駅で線路に入り込んだ駅長の幼い子を、走ってくる貨車の前から助けた。礼として駅長が電信の打ち方を教えてくれた。それから数年、彼は中西部の町から町へ渡り歩く電信技手になった。夜勤の合間に機械をいじり、本を読み、ほかの技手の倍の速さで電文を受けられるよう工夫した。

少年期のトーマス
少年期のトーマスWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1868年、ボストンで最初の発明として、議会の投票を電気で瞬時に集計する装置の特許を出した。だが議員たちは、少数派が時間をかけて抵抗できなくなるような機械は要らない、と言って買わなかった。彼はこれで、人が欲しがらないものは作らない、と心に決めたという。1869年、ニューヨークに出て、株価を電信で各地に伝える相場表示機を改良し、その権利を大金で売った。その金でニュージャージー州ニューアークに工場を開き、1本の電線で同時に4本の電信を送る装置などを発明した。

1876年、ニュージャージー州の小さな村メンローパークに研究所を建てた。機械工、ガラス職人、化学者、数学者を雇い、工作機械と薬品と図書室をそろえ、発明そのものを仕事として次々に生み出す場所だった。10日ごとに小さな発明を、6か月ごとに大きな発明を、と彼は言った。世界で最初の産業研究所と呼ばれる。ここでアレクサンダー・グラハム・ベルの電話の声を大きく明瞭にする炭素粒の送話器を作り(ベルの電話)、1877年には蓄音機を発明した(蓄音機の発明)。錫箔を巻いた円筒を回しながら、声の震えを針で刻み、それをなぞって声を再生する。最初に吹き込んだのは「メリーさんの羊」だった。機械が自分の声で話し返したことに、職人たちも彼自身も驚いた。新聞は彼を「メンローパークの魔術師」と呼んだ。

自身が開発した初期の蓄音機とともに(1878年、エジソン31歳)
自身が開発した初期の蓄音機とともに(1878年、エジソン31歳)Wikimedia Commons Levin C. Handy (per http://hdl.loc.gov/loc.pnp/cwpbh.04326 ) · Public domain

翌年から、彼は電灯に取り組んだ。電球そのものは何人もの発明家が試していたが、すぐ焼き切れた。彼のチームは数千種類の材料を試し、1879年、炭にした糸を真空のガラス球に封じた電球で長時間の点灯に成功した(エジソンの白熱電球)。のちには日本の竹を炭にしたフィラメントが使われた。彼の本領は、電球一個ではなく、発電所から電線、計量器、スイッチ、ヒューズまで、電気を家庭に届ける仕組み全体を作ったところにあった。1882年、ニューヨークのパール街で発電所が送電を始めた。

だが、彼の直流の方式は、遠くまで送ると損失が大きかった。ウェスティングハウスとテスラの交流の方式がこれに挑み、激しい「電流戦争」が起きた(電流戦争、ニコラ・テスラ)。エジソンの陣営は、交流で動物を殺してみせ、死刑の電気椅子に交流が使われるよう働きかけて、交流の危険を宣伝した。それでも交流が勝った。1892年、彼の会社は合併されてゼネラル・エレクトリックになり、社名から彼の名が消えた。

電流戦争に関わる図版:Thomas Edison c1882
電流戦争Wikimedia Commons unattributed; verso reads Please Return to Charles Scribner's Sons. · Public domain

その後の彼の仕事は、成功と失敗が入り混じった。1890年代には、磁石で鉄鉱石を選り分ける事業に財産の大半をつぎ込み、より安い鉱山が見つかったことで大損をした。一方で、助手のディクソンらとともに、動く写真をのぞき箱で見せるキネトスコープを作り、1893年には世界で最初の映画撮影所を建てた。黒く塗られた小屋は、警察の護送車の俗称にちなんで「ブラック・マライア」と呼ばれた。蓄電池の開発には10年をかけた。

アメリカで取った特許は1093件にのぼる。多くは彼の名で出されたが、実際には研究所の大勢の技術者の共同の仕事だった。のちに日本電気を創業する岩垂邦彦も、若いころ彼の会社で働いている。最初の妻メアリーとの間の二人の子に、電信の符号にちなんで「ドット」「ダッシュ」というあだ名をつけた。メアリーは1884年に死に、2年後、ミナと再婚した。

第一次世界大戦のあいだは、海軍の諮問委員会の長として、潜水艦の探知などの研究を指導した。数多くの案を出したが、海軍はほとんど採用しなかった、と彼は不満を残している。晩年は、親しい友人だったヘンリー・フォードらの後押しで、アメリカで育てられる天然ゴムの原料を探し、何千種類もの植物を試した末に、セイタカアワダチソウの品種改良に取り組んだ。

第一次世界大戦に関わる図版:Bataille de Verdun 1916
第一次世界大戦Wikimedia Commons Collection DocAnciens/docpix.fr · Public domain

1931年10月18日、ニュージャージー州ウェスト・オレンジの自宅で死んだ。84歳だった。葬儀の日の夜、大統領の呼びかけで、全国の人々が1分間、電灯を消して彼を悼んだ。電力の供給そのものを止めることはできず、消されたのは家や街の明かりの一部だった。フォードの博物館には、エジソンの最期の息を閉じ込めたとされる試験管が収められている。

天才とは1パーセントのひらめきと99パーセントの汗である。失敗したのではない、うまくいかない方法を1万通り見つけただけだ。どちらも彼の言葉として広く知られているが、本当にその形で語ったかは確かでない。確かなのは、発明を一人の天才のひらめきから、組織と資金と試行の繰り返しによる産業に変えたことである。

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