概要
オハイオ。学校は3か月で、母が家で教えた。少年の頃に難聴になった。電信技手から発明家へ。1876年、メンローパークに「発明工場」(世界初の産業研究所)。特許1093件。蓄音機、電球、発電と配電、映画(キネトスコープ)、蓄電池。交流のウェスティングハウスと争い(「電流戦争」)、負けた。「天才は1%の閃きと99%の汗」。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
エジソンの白熱電球AD1879年10月22日 · 光らせた本文
1847年2月11日、オハイオ州マイラン。7人兄弟の末。1854年、ミシガンのポート・ヒューロン。学校は3か月で、教師に「頭が混乱している」と言われ、母ナンシー(元教師)が家で教えた。子供の頃の猩紅熱と中耳炎で、難聴になった(後年、ほとんど聞こえなかった。「静かでよく考えられた」と言った)。
12歳、鉄道で新聞と菓子を売った。貨車の中に実験室を作った(火事を出して降ろされた)。15歳、駅長の子を助けて、礼に電信を教わった。5年、放浪の電信技手。夜勤で、装置をいじり、本を読んだ。
1868年、ボストン。最初の特許(電気式投票記録機)。議員が「議事を早く終わらせる装置は要らない」と言って、売れなかった。「売れないものは作らない」と決めた。
1869年、ニューヨーク。株式相場表示機(ティッカー)の改良を、ゴールド・アンド・ストック電信会社に4万ドルで売った。1871年、ニュージャージーのニューアークに工房。多重電信、電話の送話器(炭素粒。ベルの電話の音を実用の大きさにした)。
1876年、メンローパーク。「発明工場」。技師、機械工、化学者、ガラス吹き、図書室、そして工作機械。「10日ごとに小さな発明、6か月ごとに大きな発明」。世界で最初の、発明を目的とする産業研究所。
1877年、蓄音機。錫箔を巻いた円筒に、針で溝を刻む。「メリーさんの羊」を吹き込んで、再生した。助手が驚いた。彼自身も驚いた(「私は、あれほど驚いたことはない。機械が喋った」)。「メンローパークの魔術師」。
1878〜79年、電球と、電気の事業。1882年、パール街。
その後。蓄電池(10年、5万回の実験)、鉄鉱石の磁力選鉱(大失敗。1890年代に財産を注ぎ込んで、メサビ鉄山の安い鉱石で無意味になった)、セメント(コンクリートの家、コンクリートの家具)、映画(1891年、キネトグラフとキネトスコープ。覗き箱。1893年、世界初の映画スタジオ「ブラック・マライア」)、蓄音機と映画の同期、口述録音機、電気自動車の電池(フォードと組んだ)。
1093件の特許(アメリカ)。彼の名で出願されたが、多くは研究所の共同の仕事(バチェラー、クルージ、アプトン、そして日本から来た岩垂邦彦)。
第一次大戦、海軍諮問委員会の議長。潜水艦の探知、魚雷の回避。「私は何十も提案したが、海軍は一つも採用しなかった」。
晩年、天然ゴムの代わりになる植物を探した(フォードとファイアストンの依頼。1万7000種を試して、セイタカアワダチソウにたどり着いた)。
1931年10月18日、ウェスト・オレンジで死んだ。84歳。全米の照明を1分消そうという提案が出た(電力網が止められないので、実際には一部の照明だけ落とされた)。フォードは、エジソンの最後の息を試験管に集めさせた、と伝える(デトロイトのヘンリー・フォード博物館にある)。
「天才は1%の霊感と99%の発汗である」。「私は失敗したことがない。ただ、1万通りのうまくいかない方法を見つけただけだ」。どちらも、彼が本当にその形で言ったかは、確かでない。