できごと

マルコーニの大西洋横断無線

Marconi's transatlantic signal
AD1901年12月12日
重要度 5
大英帝国カナダアメリカ合衆国アメリカ合衆国グリーンランドポルトガル帝国メキシコスペイングレートブリテン及びアイルランド連合王国モロッコアイスランドAD1901年12月12日セントジョンズ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1901年12月12日の版図を描いています(11勢力)。

概要

コーンウォールのポルデューから3500キロ、ニューファンドランドのシグナル・ヒルで、凧で上げたアンテナで、モールスの「S」(点3つ)を聞いた。地球は丸いのに電波が届いた(電離層で反射した。当時は知らなかった)。聞こえたか怪しい、と言う人がいる。1909年、ノーベル賞。1912年、タイタニックの遭難信号で700人が助かった。ラジオはここから。

場所

セントジョンズ
47.57°N -52.68°E · カナダ・ニューファンドランド

関わった人(1)

グリエルモ・マルコーニAD1874年4月25日–AD1937年7月20日 · 聞いた

本文

19世紀の後半、大西洋の両岸はすでに海底の電信ケーブルで結ばれていた(大西洋横断電信ケーブル)。だがケーブルは敷くのに莫大な金がかかり、海の上の船とはつながらなかった。一方、物理学の世界では、イギリスのマクスウェルが、電気と磁気の波が光の速さで空間を伝わることを理論で示し(電磁場の理論)、1888年にはドイツのヘルツが実験でその波をとらえていた。ヘルツ自身は、この電波が何かの役に立つとは考えていなかったという。

イタリアのボローニャの裕福な家に生まれたグリエルモ・マルコーニは、大学で物理を正式に学んだわけではなかった。20歳のころ、ヘルツの実験の記事を読み、電波で信号を送れるのではないかと考えて、家の屋根裏で実験を始めた。アンテナを高く上げ、地面につなぐと、信号の届く距離が伸びることを見つけた。1895年には、家の庭から丘の向こうまで信号を届けている。イタリア政府の関心を得られなかった彼は、1896年、アイルランド出身の母の縁を頼ってイギリスへ渡り、特許を取って、翌年には会社を作った。1899年には英仏海峡を越える通信に成功し、船にも無線機を積ませていった。

グリエルモ・マルコーニの肖像
グリエルモ・マルコーニの肖像Wikimedia Commons Pach Brothers · Public domain

次に彼が狙ったのは大西洋だった。多くの学者は無理だと考えていた。電波は光と同じようにまっすぐ進むはずで、地球は丸い。3000キロ以上も離れれば、相手は地平線のはるか下になり、電波は宇宙へ抜けてしまう。マルコーニは理論より実験を信じた。1900年、イングランドの南西の端、コーンウォールのポルデューの崖の上に、それまでとは桁違いに強力な送信所を建てた。設計には電気工学者のジョン・アンブローズ・フレミングが加わった。

準備は順調ではなかった。1901年9月、ポルデューの巨大なアンテナは嵐で倒れ、11月にはアメリカのケープコッドに建てていたアンテナも強風で壊れた。マルコーニはポルデューのアンテナを簡単な形で作り直し、受信の側は、アンテナを凧や気球で吊り上げることにした。11月の末、彼は助手のジョージ・ケンプとパーシー・ペイジェットを連れて、北米の東の端、ニューファンドランドのセントジョンズに渡った。港を見下ろす丘シグナル・ヒルに立つ古い建物を借りて受信の装置を据えた。

イタリア時代の送信機 (1895年)
イタリア時代の送信機 (1895年)Wikimedia Commons Guglielmo Marconi · Public domain

ポルデューには、毎日決まった時刻に、モールス符号の「S」、つまり短い点を三つ、繰り返し打ち続けるよう指示してあった(モールスの電信)。12月11日に上げた気球は、強い風で綱が切れて飛ばされた。12日、強風のなかで凧を上げ、アンテナの線を150メートルほどの高さまで吊り上げた。その日の昼過ぎ、受話器を耳に当てていたマルコーニは、雑音の中に、かすかに三つの短いクリック音を聞いたと記している。彼は受話器をケンプに渡し、ケンプも聞こえると答えた。その日、彼らは何度か同じ音を聞いたという。ポルデューからおよそ3500キロ。

マルコーニは2日間迷ったあと、12月14日にこの結果を発表した。知らせは世界中の新聞に載り、彼は一躍時の人になった。だが疑う声もあった。音を紙に記録する装置は使われておらず、証人は彼とケンプの二人だけだった。受信したのは昼間で、当時の装置と彼が使ったとみられる波長では、昼間に大西洋を越える電波を受けるのは難しかったはずだと、のちの研究者の一部は指摘している。雑音の中に、聞きたいと願っていた音を聞いたのではないか、というのである。12月12日に本当に信号が届いていたのかは、いまも確かめようがない。

渡英直後の頃の1GHz送信機とその受信機 (1896-97年)
渡英直後の頃の1GHz送信機とその受信機 (1896-97年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

ニューファンドランドで大西洋の電信を独占していたケーブル会社は、マルコーニの実験が自分たちの権利を侵すとして、弁護士を通じて実験をやめるよう求めた。マルコーニは場所をカナダのノヴァスコシアに移した。そして1902年2月、大西洋を渡る客船の上で、ポルデューからの信号を3000キロ以上離れた所で受け、それを紙の帯に記録してみせた。電波が大西洋を越えて届くことは、これで疑いようがなくなった。夜のほうが昼よりはるかに遠くまで届くことも、このとき分かった。

なぜ丸い地球の向こうまで電波が届くのか。1902年、アメリカのケネリーとイギリスのヘヴィサイドは、大気の上のほうに電気を帯びた層があって、そこが電波をはね返しているのではないかと、それぞれ考えた。この層、いまで言う電離層の存在が実験で確かめられたのは、1924年のことである。マルコーニの電波は、地球の丸みに沿って曲がったのではなく、空ではね返って届いていた。

カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号などで恒久的施設による無線電報サービスの営業開始(1900年)
カイザー・ヴィルヘルム・デア・グロッセ号などで恒久的施設による無線電報サービスの営業開始(1900年)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

1907年、大西洋を越える無線電報の業務が始まった。1909年、マルコーニはドイツのブラウンとともにノーベル物理学賞を受けた。無線の発明をめぐっては、ロシアのポポフや、アメリカのニコラ・テスラらの先行する仕事もあり、のちに特許をめぐって長い争いが起きている。

無線の力を世界に知らしめたのは、1912年4月のタイタニックの沈没だった。氷山にぶつかったタイタニック号では、マルコーニの会社から派遣された二人の通信士が、船が沈む直前まで遭難信号を打ち続けた。古い遭難信号CQDと、数年前に定められたばかりの新しいSOS(SOSの採用)の両方が使われた。信号を受けて駆けつけた客船カルパチア号は、救命ボートの700人あまりを救い上げた。近くにいた別の船は、通信士が寝ていて信号を受けられなかった。この事件のあと、旅客船に昼夜を通して無線の見張りを置くことが国際的に義務づけられた。

タイタニックの沈没に関わる図版:Stöwer Titanic
タイタニックの沈没Wikimedia Commons Willy Stöwer · Public domain

点と線の信号を送る技術は、やがて人の声や音楽を送る技術へと進み、1920年にはアメリカで定時のラジオ放送が始まった(最初のラジオ放送)。マルコーニは晩年、ムッソリーニのファシスト党に加わり、イタリアの学士院の総裁なども務めた。1937年に彼が亡くなったとき、世界各地の無線局は追悼のために電波を止めたと伝えられる。シグナル・ヒルには、いまもマルコーニがこの丘で信号を聞いたことを記す碑がある。

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