賈思勰
概要
青州の益都の人。高陽太守。それ以外ほとんど分からない。『斉民要術』10巻。「経伝を採り、歌謡を捜し、老いた人に聞き、自分で試した」。羊を飼って失敗した話を書いた。中国最古の農書、最古の料理書、最古の醸造書。
関わったできごと(1)
『斉民要術』AD540年頃 · 著者本文
賈思勰について分かっていることは、驚くほど少ない。自著『斉民要術』の巻頭に「後魏高陽太守賈思勰撰」とあるのがほぼ唯一の手がかりで、正史に伝はなく、生まれた年も死んだ年も分からない。本の中に山東の地名や風習が多く出てくることから、青州の益都(いまの山東省寿光のあたり)の人とみられている。北魏の時代に高陽郡の太守を務めたが、その高陽が河北の高陽か、山東の高陽かについても説が分かれる。同じころ山東に賈思伯・賈思同という学者官僚の兄弟がいて、一族ではないかと言われるが、確かめられない。
書かれた時期は、本文に出てくる記事から、530年代から540年代とみられている。北魏が東西に割れ、山東が高歓の握る東魏に入った前後である(東魏と西魏の分裂)。太守を辞めたあとに故郷でまとめたと考える研究者が多い。
序文で、彼は書き方をこう説明している。古い経書や伝を拾い集め、民間の歌やことわざにまで手を広げ、経験を積んだ老農に尋ね、自分で行って確かめた。机の上だけで作った本ではない、という宣言である。実際、本には自分の失敗も書いてある。かつて羊を200頭飼ったが、干し草と豆が足りず、1年のうちに半分以上を飢え死にさせた。そこで、羊を飼うならまず飼料を蓄えよと説く。農書の著者が自分のしくじりを例に挙げるのは珍しい。
『斉民要術』(『斉民要術』)は10巻92篇からなる。斉民とは庶民のこと、要術とは暮らしに要る技術の意味である。最初に置かれるのは粟(あわ)で、ついで黍、麦、豆と、華北の畑の作物が続く。耕し方、種の選び方、播く時期、土の湿りの保ち方が細かく書かれ、乾いた華北で水を逃がさない工夫が繰り返し説かれる。稲作の記述は少なく、南方の作物は最後の巻に「中国の産ではないもの」としてまとめられている。そのあと野菜、果樹、桑と養蚕、家畜、魚の養殖へと進む。
記述は具体的である。粟だけでも80を超える品種の名を挙げ、早く熟すもの、風に強いもの、味のよいものを分けている。同じ畑に同じ作物を続けて植えると収穫が落ちることを知っていて、前の年に何を植えた畑なら何がよいかを作物ごとに書く。緑豆などを植えて青いうちに鋤き込み、肥料にする方法も勧めている。天の時に従い、土地の利をはかれば、少ない力で多くを得られる。思うままにして道理に背けば、骨折っても実りはない。本の中の一節は、この農書全体の考え方をよく表している。
後半の巻は台所の本でもある。酒の造り方、麹の作り方が何種類も記され、豆を発酵させた醤、豉(くき、納豆に似た塩辛い発酵豆)、酢、漬物、干し肉、膾の作り方が並ぶ。羊や牛の乳から酪や酥を作る方法もある。華北には北魏を建てた鮮卑などの遊牧の民が住み、その乳の文化が漢人の食卓に入り込んでいた。6世紀の華北で二つの食の伝統が混ざり合っていた様子が、そのまま記録されている。料理法の中に「炒」の字が使われていて、これが炒める調理の最も古い記録の一つとされる。
この本は、それ以前の書物を150種以上も引用している。前漢の農書『氾勝之書』や後漢の『四民月令』はその後失われ、いまでは主に『斉民要術』の引用によって中身が分かる。賈思勰が書き写さなければ、消えていた知識である。
『斉民要術』はその後の中国の農書の手本となり、元の『農桑輯要』や明の『農政全書』にも大きく引き継がれた。日本にも早く伝わり、平安時代の書目にその名が見える。醤や豉、麹を使った酒造りの記述は、東アジアの発酵食品の歴史をたどるとき必ず参照される。日本の醤油や味噌の起源を語るときにも(醤油)、遠い祖先としてこの本の醤がしばしば引き合いに出される。
本の著者でありながら、自分については官職と名前しか残さなかった。農民の技術を集めて書き留めた役人は、その技術の陰に姿を隠したままである。いま山東の寿光には彼の像が建ち、農業の町の顔になっている。