できごと

緑の革命

The Green Revolution
AD1965年 – AD1975年
期間を持つできごと重要度 4
緑の革命に関わる図版:Index-of-cereal-production-yield-and-land-use World
Index-of-cereal-production-yield-and-land-use World Wikimedia Commons Hannah Ritchie · CC BY 4.0

概要

高収量品種と化学肥料と灌漑で、穀物の生産が倍以上になった。飢饉が消える一方、水を大量に使い、地下水位が下がり、農家の負債が増える。

場所

デリー
28.61°N 77.21°E · インド

本文

独立したばかりのインドは、いつも飢えの影におびえていた。イギリスの支配の末期、1943年のベンガル飢饉では、200万から300万人が亡くなったとされる。インドの独立の後も、人口は年に2パーセント前後の勢いで増え続け、穀物の生産は追いつかなかった。1960年代半ば、二年続けて大干ばつが襲うと、インドはアメリカからの小麦の援助に頼らなければ国民を養えなくなった。援助の船が港に着くたびに食べ物を配る、その日暮らしの状態は「船から口へ」と呼ばれた。ベトナム戦争をめぐる意見の違いから、アメリカは援助を外交の圧力にも使い、首相のインディラ・ガンディーをはじめインドの指導者たちは、食糧を自前で賄う必要を痛感した。

答えは、地球の反対側のメキシコで用意されていた。アメリカの財団の支援で1940年代からメキシコで小麦の改良を続けていたノーマン・ボーローグは、病気に強く、収量の多い品種を作り出していた。鍵になったのは、背の低さである。従来の小麦は、肥料をたくさん与えると穂が重くなりすぎて茎が倒れてしまった。ボーローグは、日本で育成された背の低い小麦の遺伝子を取り入れ、短く太い茎で重い穂を支えられる品種を作った。肥料と水をたっぷり与えれば、収量は2倍、3倍に伸びた。

センネジェムの墓室壁画、畑を耕す場面
センネジェムの墓室壁画、畑を耕す場面Wikimedia Commons Painter of the burial chamber of Sennedjem · Public domain

1965年から66年にかけて、インド政府は農業相スブラマニアムと農学者スワミナタンらの主導で、メキシコの小麦の種を大量に輸入した。合わせて1万8000トンにのぼり、当時としては史上最大の種の輸入だったとされる。同じころ、フィリピンの国際稲研究所が開発した背の低い稲の品種も、アジア各地に広まった。

新しい品種は、それだけでは力を発揮しない。空気中の窒素から工業的に作られる化学肥料(ハーバー・ボッシュ法)、農薬、そして安定した水が要る。政府は肥料に補助金を出し、電気を安く供給して井戸の汲み上げを後押しし、決まった値段で穀物を買い上げる仕組みを整えた。いち早く成果が出たのは、用水路と井戸の整ったインド北西部のパンジャーブ州とハリヤーナー州だった。インドの小麦の生産は、1960年代半ばの年1200万トンほどから、6〜7年で2倍を超えた。1968年、アメリカの援助機関の長官がこの変化を「緑の革命」と呼び、言葉は世界に広まった。1970年、ボーローグはノーベル平和賞を受けている。

ハーバー・ボッシュ法に関わる図版:Fritz Haber
ハーバー・ボッシュ法Wikimedia Commons The Nobel Foundation · Public domain

インドは1970年代のうちに穀物の自給をほぼ達成し、のちには輸出するまでになった。独立後のインドでは、ベンガル飢饉のような大規模な飢饉はもう起きていない。もっとも、飢饉が消えた理由は増産だけではなく、報道の自由や選挙のある政治が、政府に飢えを放置させなかったからだ、という経済学者の指摘もある。

しかし、成功の代償は時とともに明らかになった。新しい品種は大量の水を必要とした。パンジャーブでは、乾いた季節にも稲を作るために電動ポンプで地下水を汲み上げ続け、地下水の水位が年々下がっている。大量の化学肥料と農薬は土と水を汚し、農村の人びとの健康への影響も報告されている。稲の収穫後に残る藁を焼く煙は、毎年冬に首都デリーの大気汚染を悪化させる一因になっている。

「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ画)
「民衆を導く自由の女神」(ドラクロワ画)Wikimedia Commons Eugène Delacroix · Public domain

恩恵の広がり方にも偏りがあった。用水路のある豊かな地域と、雨だけが頼りの乾いた地域。種や肥料を買う資金を持つ大きな農家と、土地を持たない農業労働者。差は広がった。新しい農業では、種、肥料、農薬、ポンプの電気と燃料を毎年買わなければならない。不作や値下がりの年には借金が返せなくなり、追い詰められた農家の自殺が社会問題になっている。昔から各地で育てられてきた多様な在来の品種が、少数の高収量品種に置き換わって失われたことも、指摘されている。

緑の革命は、世界の人口が急増した20世紀後半に、数億の人びとを飢えから救った技術だった。同時に、その成功は水や土や農家の暮らしを先食いするものでもあった。増やすことに成功した後、それをどう長く続けるか。インドの農業は、いまもその問いに向き合っている。

出典(2)

マット・リドレー(大田直子、鍛原多惠子、柴田裕之 訳) 『繁栄 明日を切り拓くための人類10万年史』第4章 九〇億人を養う
ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』第1章(飢餓・疫病・戦争を人類は抑え込んだ)

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