毘伽可汗
概要
突厥を再興した可汗。自分たちの言葉で書かれた碑文を残し、唐に取り込まれるなと説いた。
所属
突厥関わったできごと(1)
オルホン碑文AD732年(毘伽可汗碑は735年) · 建立本文
突厥を再興した可汗になる。683年に生まれた。中国の史書での名は黙棘連という。

ブミン可汗が開いた突厥は、7世紀の前半に東西に割れ、東の突厥は630年、唐に降った。それから50年、唐に服属していた時期の後になる。可汗の一族は唐の将軍の称号を受け、突厥の兵は唐の戦争に駆り出された。682年、阿史那氏の骨咄禄が唐に背いて兵を挙げ、イルテリシュ可汗を名乗って国を立て直した。ビルゲはその息子である。生まれたのは、父が独立を取り戻した翌年だった。
父の死後、叔父のカプガン可汗が位に就き、唐の則天武后の時代の華北に繰り返し攻め込んで勢力を広げた。ビルゲは若いころから叔父のもとで兵を率い、各地の部族を討って回った。716年、叔父が遠征の帰りに討たれると、その息子が位を継いだ。弟のキュル・テギンは兵を挙げて従兄弟とその一派を殺し、兄のビルゲを可汗に立てた。ビルゲとは、賢い、という意味の称号である。

弟のキュル・テギンと、宰相トニュククが支えた。トニュククはかつて唐の側で育った老臣で、ビルゲの妃の父でもあった。ビルゲが城壁を築き、仏教や道教の寺を建てたいと言い出したとき、トニュククは反対したと『旧唐書』は書く。突厥の人口は唐の百分の一にも満たない。それでも唐と渡り合えるのは、水と草を追って移り住み、狩りで武を鍛えているからで、強ければ攻め、弱ければ逃げ隠れできる。城に住めば一度の敗戦で滅ぼされる。仏や道の教えは人を優しく弱くする、と。ビルゲはその言葉に従った。
即位したとき、国は疲れていた。従っていた部族は離れ、北のオグズ、西のカルルク、東の契丹と、四方の敵との戦いが続いた。ビルゲは自ら兵を率いて毎年のように戦い、720年には、唐が周りの部族を集めて仕掛けてきた挟み撃ちを打ち破った。一方で、唐の玄宗とは和を結び、国境の市で馬を絹と交換する交易を開いた。開元の治と呼ばれる唐の繁栄の時代に、突厥は戦わずに絹を得る道を選んだ。唐の皇女を妻に迎えたいと何度も求め、約束だけ与えられて、ついに実現しなかった。727年には、吐蕃から届いた唐を共に攻めようという誘いの手紙を、そのまま唐へ送り届けている。玄宗はこれを喜んで、交易を広げた。

731年、キュル・テギンが死んだ。ビルゲは、モンゴル高原の中央、オルホン川の流域に弟の碑を建てた。玄宗は職人を送って廟を造らせ、碑の一面には玄宗自身の文による漢文が刻まれた。だが、碑の残りの面を埋めたのは、突厥の人々自身の文字による突厥語の長い文章だった(オルホン碑文)。その三人の碑文が、オルホン渓谷に立っている。
内容が、単なる功績の列挙ではない。自分たちの民への警告になっている。中国の民の言葉は甘く、絹は柔らかい。甘い言葉と柔らかい絹で遠くの民を近づけ、近づいたところで悪い知恵をめぐらす。唐の絹と甘い言葉に乗るな。南の山(中国の地)へ移って住めば、必ず滅びる。草原の聖地ウテュケンに留まれ、そうすれば永遠に国を保てる、と。一度服属して独立を失った経験を踏まえている。かつて突厥の貴族の息子は唐の奴となり、娘は婢となった、とも書く。
「私が座に就いたとき、民は飢え、裸だった」という意味の一節がある。豊かな民の可汗になったのではない、貧しい民を養い、多くし、豊かにしたのだ、とビルゲは語る。自分の失敗も書いている。従わない部族を討ちながら、自分たちの側の過ちで民を失ったこともあったと認めている。服属した民から見た記録が、その民自身の文字で残っている例になる。
734年、毒殺された。大臣の一人が毒を盛ったと唐の史書は書く。ビルゲは死ぬ前に、その者の一族を討たせたという。翌735年、ビルゲ自身の碑も、弟の碑の近くに建てられた。碑文を書いたのは、甥のヨルルグ・テギンだった。
ビルゲの死から10年ほどで、突厥は内紛で崩れ、744年、かつて従えていたウイグルに取って代わられた(ウイグル可汗国)。碑はその後1000年以上、草原に立ち続けた。19世紀の末に発見され、1893年、デンマークの言語学者トムセンが文字を解読した。トルコ系の言葉で書かれた最古のまとまった文章として、いまのトルコやモンゴルで、自分たちの歴史の原点の一つとして大切にされている。