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Event / できごと

モンゴルの站赤

The Mongol yam
AD1234年
重要度 5
モンゴル帝国古シベリアの狩猟採集民北極圏の海獣狩猟民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西遼(カラ・キタイ)クマン(キプチャク)チベットブワイフ朝ラージプートの諸王国ツングースの諸部族ガズナ朝デリー・スルタン朝デリー・スルタン朝南詔Kwarizm-Shah南詔と大理パガン朝パガン朝日本高麗ブワイフ朝大越大越Kamarupaピュー(驃)の諸都市ネパールアイヌモシリブータンAD1234年カラコルム
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1234年の版図を描いています(29勢力)

概要

オゴデイが整備した駅伝の網。25から45キロごとに站を置き、馬、食料、宿、そして替えの人を常備させる。牌子(パイザ)を持つ使者は、どの站でも馬を替えられる。金の牌を持つ者は最優先。急使は一日に300キロ以上進んだとされる。マルコ・ポーロが、その規模に驚いて詳しく書いている。ユーラシアの東西が、初めて一つの通信網で結ばれた。同時に、この街道を、14世紀の疫病が同じ速さで移動した。

場所

カラコルム
47.20°N 102.83°E · モンゴル

本文

**問題**。

1206年、テムジンが**チンギス・カン**として即位した。

以後20年で、モンゴルの版図は、中国北部から中央アジア、そしてカスピ海まで広がった。

**この広さを、どう統治するか**。

騎馬の軍は、速い。しかし、**命令と情報が、それに追いつかなければならない**。

**站赤(ジャムチ)**。

モンゴル語 **ǰam**(道)に由来する。トルコ語系の **yam**、漢語で**站赤**。

チンギスの時代に原型があり、**1234年、オゴデイ・カアン**が本格的に整備した。

『元朝秘史』に、オゴデイが自らの四つの功績の一つとして、この制度を挙げた記述がある。

(彼が挙げた四つ——金を滅ぼしたこと、**站を置いたこと**、水のない土地に井戸を掘ったこと、そして各地に監督官を置いたこと。)

**構造**。

- **25〜45km ごと**(一日の行程)に、**站**を置く。 - 各站に、**馬**(数十頭から数百頭)、**食料**、**宿舎**、そして**世話をする人**を常備させる。 - 站の維持は、周辺の遊牧民と農民に課された義務である。

(これが、極めて重い負担だった。後の時代、站の負担が原因で逃亡する住民の記録が、繰り返し現れる。)

**牌子(パイザ)**。

使者が携える、**通行の証**。

金属の板に、文字が刻まれている。

- **金の牌**——最上級。 - **銀の牌**。 - **銅・木の牌**。

刻まれた文の例(ウイグル文字のモンゴル語)——

「**永遠の天の力により。カアンの名は、聖なるものである。これに従わぬ者は、罪を得て、死ぬであろう**」。

これを見せれば、**どの站でも、馬と食料と宿を要求できる**。

(実物が、いくつも出土している。エルミタージュ美術館、そしてモンゴルと中国の博物館に。)

**速さ**。

- 通常の使者——**一日 40〜50km**。 - **急使**——馬を替え続けて、**一日 200〜300km以上**。

(急使は、体を布で固く縛った。振動で内臓を傷めないため、とされる。そして、鈴を鳴らして走った。音が聞こえた站は、あらかじめ次の馬を用意して待つ。)

**マルコ・ポーロ**。

彼の記述(『東方見聞録』)が、この制度の詳細を伝えている。

(記述の信憑性については、長く議論がある。彼が本当に中国へ行ったかを疑う説もある。ただし、站赤についての記述は、中国側の史料とよく一致する。)

彼が書いたこと。

- 站の数——**1万以上**(中国だけで)。 - 馬の数——**20万頭以上**。 - 站の建物は、**豪華である**。「王が泊まれるほど」。 - 主要な道の間には、**歩いて走る使者**の中継所が、5kmごとに置かれている。彼らは帯に鈴を付けて走り、次の中継所が音で気づいて待つ。

(この徒歩の飛脚は、**一日で10日分の距離**を運べた、と彼は書いている。)

**帰結**。

**(1)ユーラシアが、一つの網で結ばれた**。

**パクス・モンゴリカ**(モンゴルの平和)。

13〜14世紀、中国から地中海まで、**一つの権力の下で移動できる**時期があった。

(ペルシアの歴史家ジュヴァイニーが書いた——「頭に金の皿を載せた乙女が、太陽の昇る国から沈む国まで、何の危険もなく歩ける」。誇張だが、当時の実感である。)

商人が動いた。宣教師が動いた(プラノ・カルピニ、ルブルック、モンテコルヴィーノ)。技術が動いた。

- 中国からヨーロッパへ——火薬、印刷、羅針盤(の一部)、紙幣の概念。 - 西からアジアへ——イスラームの天文学と数学(マラーガ天文台の成果が、中国へ入った)。医学。

**(2)そして、病が動いた**。

**1347年**、**黒死病**が、地中海に着いた。

(ジェノヴァの商船が、クリミアのカッファから、シチリアへ運んだ。

カッファは、モンゴル軍に包囲されていた。伝えられるところでは、包囲軍が、疫病で死んだ者の遺体を、投石機で城内へ投げ込んだ。〈この記述は、ガブリエーレ・デ・ムッシという公証人の記録による。史実性については議論がある。〉)

黒死病の起源は、中央アジアの草原とされる(近年のDNA研究は、キルギスのイシク・クル湖畔の14世紀の墓地を、有力な起源地の一つとして示している)。

**そして、それを西へ運んだのは、モンゴルが整備した街道と、その上を行き交う商人と兵と使者である**。

(ウィリアム・マクニールが『**疫病と世界史**』〈1976年〉で論じたのが、この点である。交通の網が、病の網でもある。)

ヨーロッパの人口の**3分の1から半分**が、数年で死んだ。

**(3)終わり**。

站赤は、元朝の崩壊(1368年)とともに衰えた。

ただし——**制度そのものは、残った**。

- 明も清も、**駅伝**を維持した。(清代、全国に約2000の駅站。) - ロシアが、モンゴルの制度を引き継いだ。**ヤム**(ям)——ロシア語で駅逓。**ямщик**(ヤムシチク、御者)という語が、いまも残っている。

(モスクワの地名「**ヤムスカヤ**」は、駅逓の御者が住んだ地区に由来する。)

**そして**。

いま、我々が「ネットワーク」と呼ぶものの、最も古い形の一つである。

**節点(站)**と、**経路**と、**通行の権限(牌子)**と、そして**中継**。

その上を、命令と、情報と、商品と、そして病が、同じ速さで移動する。

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