モンゴルの站赤
概要
オゴデイが整備した駅伝の網。25から45キロごとに站を置き、馬、食料、宿、そして替えの人を常備させる。牌子(パイザ)を持つ使者は、どの站でも馬を替えられる。金の牌を持つ者は最優先。急使は一日に300キロ以上進んだとされる。マルコ・ポーロが、その規模に驚いて詳しく書いている。ユーラシアの東西が、初めて一つの通信網で結ばれた。同時に、この街道を、14世紀の疫病が同じ速さで移動した。
場所
47.20°N 102.83°E · モンゴル
本文
1206年、モンゴル高原の諸部族をまとめたテムジンは、チンギス・ハンとして即位した。それから20年ほどのうちに、モンゴルの騎馬軍は、中国の北部から中央アジアを越え、カスピ海の西にまで達した(モンゴル帝国の拡大)。人類の歴史で最も大きな陸の帝国の始まりである。だが、これほど広い土地をどう治めるのか。騎馬の軍は速い。命令と知らせが、それに追いつかなければ、帝国はばらばらになる。
モンゴル人が作った答えが、站赤(ジャムチ)と呼ばれる駅伝の網だった。モンゴル語で道を意味する「ジャム」に由来し、トルコ系の言葉では「ヤム」、漢語では站赤と書かれた。チンギス・カンの時代にすでにその原型があったが、制度として大きく整えたのは、後を継いだ息子のオゴデイである。1234年に中国北部の金を滅ぼしたオゴデイは、その前後から、帝国の都カラコルムを中心に、各地を結ぶ駅の網を張りめぐらせた。

モンゴルの歴史を伝える『元朝秘史』には、オゴデイが自分の治世を振り返り、四つの善い行いと四つの過ちを数え上げる場面がある。善い行いとして挙げたのが、金の国を平らげたこと、站を置いて使者が速く行き来できるようにしたこと、水の無い荒れ地に井戸を掘ったこと、そして各地の町に代官と軍を置いたことだった。過ちのほうには、酒に溺れたことなどが挙げられている。駅伝の網は、帝国の主が自ら誇る功績だった。
仕組みはこうである。主な道筋に沿って、数十キロごと、おおよそ一日で進める距離ごとに站を置く。站には、使者が乗り継ぐための馬を何十頭、多いところでは何百頭も用意し、食料と宿、そして馬や旅人の世話をする人々を常に置いておく。站を維持するのは、その周りに住む遊牧民や農民の務めとされた。馬を出し、食料を出し、人を出す。この負担はきわめて重く、後の時代には、站の務めに耐えかねて土地を捨てて逃げる住民の記録がたびたび現れる。

站を使うには、通行の証が要った。牌子(パイザ)と呼ばれる金属や木の板で、身分や用向きの重さによって、金、銀、銅、木などの種類があった。牌子には文字が刻まれ、永遠の天の力により、カアンの命に従わない者は罪を得て死ぬ、という趣旨の文句が記されたものもある。これを見せれば、どの站でも馬と食料と宿を求めることができた。金の牌を持つ者は最も優先された。いまもエルミタージュ美術館やモンゴル、中国の博物館に、実物の牌子がいくつも残っている。
ふつうの使者は一日に数十キロ進んだが、急ぎの使者は站ごとに馬を替え、昼も夜も走り続けて、一日に300キロ前後も進んだとされる。急使は振動に耐えるため体を布できつく巻き、鈴を鳴らして走ったと伝えられる。鈴の音を聞いた站の者は、到着より先に次の馬を用意して待った。
この網の大きさを、ヨーロッパに伝えたのがマルコ・ポーロである。13世紀の後半、フビライ・ハンの宮廷に仕えたとされる彼は、『東方見聞録』の中で、大カアンの領内には1万を超える站があり、そこに20万頭を超える馬がいて、站の建物は王が泊まれるほど立派だと書いた。駅と駅の間には、さらに数キロおきに徒歩の飛脚の小屋があり、腰に鈴を付けた飛脚が走り継いで、ふつうなら10日かかる道のりを一日で知らせを運ぶ、とも記している。彼が本当に中国へ行ったのかを疑う声は昔からあるが、站赤についての記述は中国側の記録とよく合うとされる。

この網の上で、ユーラシアの東と西が、初めて一つの権力の下でつながった。13世紀から14世紀の前半にかけて、中国から黒海や地中海の近くまで、比較的安全に旅ができる時期が生まれた。のちに「モンゴルの平和」と呼ばれる時代である。商人たちが行き交い、ローマ教皇やフランス王の使いとして、カルピニやルブルクといった修道士がカラコルムを訪れ、14世紀の初めには北京に司教座まで置かれた。
物と知識も動いた。中国の火薬や印刷の技術、紙幣の考え方が西へ伝わったとされる。逆に、西からはイスラームの天文学や数学、医学が東へ入った。ペルシアのマラーガ天文台の成果は、元の暦づくりにも影響を与えたと考えられている。站赤の網は、帝国の命令を運ぶために作られたが、それ以上のものを運んだ。

そして、病も運んだ。14世紀の半ば、中央アジアの草原から広がったとみられる疫病が、交易の道に沿って西へ進んだ。近年の古いDNAの研究は、いまのキルギスのイシク・クル湖の近くにある14世紀の墓地を、その出発点の有力な候補に挙げている。1340年代、モンゴル系のジョチ・ウルスの軍が、クリミア半島のジェノヴァ人の港町カッファを包囲したとき、包囲軍の中で疫病が広がった。イタリアの公証人デ・ムッシの記録は、包囲軍が死者の遺体を投石機で町の中へ投げ込んだと伝えるが、どこまで事実かについては議論がある。やがてジェノヴァの船が病を地中海へ運び、1347年から黒死病がヨーロッパを襲った。数年のうちに、ヨーロッパの人口の3分の1から半分が失われたと推計されている。
歴史家ウィリアム・マクニールは、1976年の『疫病と世界史』で、モンゴルが結びつけた交通の網が、同時に病気の網でもあったと論じた。命令や商品や知識が速く遠くまで動く世界では、病もまた速く遠くまで動く。
1368年、元朝は明に追われて北へ退き、站赤も帝国とともに衰えた。だが、駅伝という仕組みそのものは残った。明も清も、駅を置いて公文書と役人を運ばせ続けた。モンゴルの支配を長く受けたロシアは、その制度を受け継ぎ、駅逓をヤムと呼んだ。馬車の御者を指すロシア語「ヤムシチク」はここから来ており、モスクワには御者たちが住んだ地区に由来する通りの名が残っている。
站という節点と、それを結ぶ道と、通行を許す牌子と、走り継ぐ使者。站赤は、私たちがいまネットワークと呼ぶものの、最も古く大きな形の一つだった。その上を、命令と情報と商品が、そして病が、同じ速さで動いた。