アンカラの戦い

概要
ティムールがオスマンの君主を捕らえた。おかげでコンスタンティノープルの陥落は半世紀遅れる。
場所
39.93°N 32.86°E · トルコ
関わった人(1)
ティムールAD1336年4月9日–AD1405年2月18日 · ティムール側 · 総指揮本文
14世紀の末、二つの征服者が東西から勢力を広げていた。西にいたのは、オスマン朝の君主バヤズィト1世(雷帝)である。その素早い進軍から「雷帝」と呼ばれた。バルカン半島ではセルビアを従え、1396年にはニコポリスの戦いでハンガリー王と西欧の騎士たちの十字軍を打ち破った。アナトリアでは、トルコ系の小君侯国を次々に併合していた。
ビザンツ帝国は、コンスタンティノープルとその周りだけの小国になっていた。バヤズィトは1394年ごろから町を囲み、海と陸から締め上げた。皇帝マヌエル2世は援軍を求めて西欧を回り、パリやロンドンまで出向いたが、まとまった助けは得られなかった。

東にいたのはティムールである。中央アジアのサマルカンドを都に、イラン、イラク、カフカスを征服し(ティムール帝国の拡大)、1398年には北インドのデリーを略奪した。1400年から翌年にかけてはシリアに攻め入り、ダマスクスを落とした。
二人がぶつかるのは時間の問題だった。バヤズィトに領地を奪われたアナトリアの君侯たちは、ティムールのもとへ逃れて助けを求めた。両者は互いを侮辱する手紙を送り合ったと伝えられる。ティムールにとってバヤズィトは、同じイスラームの君主でありながら、自分の宗主権を認めない成り上がりだった。

1402年7月20日、両軍はアンカラの北東の平原で戦った。ティムールは先に水場を押さえ、夏の暑さの中でオスマンの軍を渇きに追い込んだとされる。インドから連れてきた戦象も戦場に並んだ。戦いのさなか、オスマンの側にいたタタール人の騎兵と、併合された君侯国の兵たちが、ティムールの側へ寝返った。かつての主君がティムールの陣にいるのを見たためである。
それでも最後まで踏みとどまった部隊があった。従属国セルビアの君主ステファン・ラザレヴィチの重装騎兵である。彼は奮戦の末、バヤズィトの息子の一人を守って戦場を離脱した。バヤズィトは近衛兵とともに戦い続けたが、ついに捕らえられた。

バヤズィトは捕虜のまま、翌1403年に死んだ。ティムールが彼を鉄の檻に入れて連れ回し、足台にしたという話がよく知られている。16世紀以降の記録や、イギリスの劇作家マーロウの戯曲で広まったもので、後世の誇張とされる。ティムールは、アナトリアの君侯たちに領地を返し、オスマン朝を東西に割ったまま引き揚げた。
アンカラの勝利は、遠くヨーロッパの宮廷も驚かせた。オスマンを打ち破った東の王に、各国は使者を送った。カスティーリャ王の使節クラビホは、1404年にサマルカンドに着き、ティムールの宮廷と建設の進む都の様子を詳しく書き残している。西欧の人々にとって、ティムールはオスマンの背後にいる頼もしい味方に見えた。

コンスタンティノープルの包囲は解けた。ビザンツは、これで半世紀生き延びた。オスマン朝は、その後11年にわたる空位の時代に入る。バヤズィトの4人の息子が、それぞれ地方を握って争ったのである。最後にメフメト1世が兄弟を倒し、1413年に国を一つに戻した。
ふつうなら、ここで滅んでもおかしくなかった。立ち直れた理由として、バルカン半島の支配が根づいていたこと、君主に直属する兵と官僚の仕組みがすでに育っていたことが挙げられる。そして何より、ティムールが戻ってこなかった。

ティムールはオスマンを滅ぼすことには関心が無かった。彼の目は東の明へ向いていた(明の成立)。1404年に大軍を集めて東へ発ったが、翌1405年の2月、遠征の途中で病に倒れて死んだ。彼が築いた帝国は、息子と孫たちのあいだで分かれていく。1453年、バヤズィトのひ孫にあたるメフメト2世が、半世紀遅れてコンスタンティノープルを落とすことになる(コンスタンティノープル陥落)。