ゲル
概要
柳の格子を蛇腹に広げて壁とし、放射状の垂木を輪で受けて屋根にする。羊毛を圧縮したフェルトで覆い、毛の縄で締める。釘も接着も使わない。二人で一時間ほどで組み、また畳める。頂の輪は煙を出し、光を入れ、そして時刻を測る目安になった。入口は必ず南を向く。内部の位置には決まりがあり、北が上座、西が男の側、東が女の側である。移動する家であると同時に、方位と序列を持つ小さな宇宙だった。
場所
47.20°N 102.83°E · モンゴル
本文
モンゴル高原の草原では、家は畳んで運ぶものである。季節ごとに家畜の食べる草を求めて移り住む暮らしでは、一か所に根を下ろした家は役に立たない。冬は零下三十度を下回り、夏は乾いた日差しが照りつけ、風は一年じゅう強い。その中で、組み立てやすく、運びやすく、寒さに強い家として磨かれてきたのがゲルである。
骨組みは五つの部分からなる。まず壁になるのがハナと呼ばれる格子で、柳などの細い木を斜めに交差させ、革紐で留めて作る。蛇腹のように畳めて、広げると網の目の壁になる。これを四枚から八枚ほど輪につなぐ。枚数で家の大きさが決まり、「四つ壁のゲル」「六つ壁のゲル」と呼び分ける。次に、壁の上端から中央へ向けて、ウニと呼ばれる垂木を放射状に渡す。数は六十本から百本を超える。その垂木の先を受けるのが、頂の木の輪トーノである。煙はここから抜け、光はここから入る。

覆いはフェルトである。羊毛を湿らせて広げ、巻き上げたものを馬に引かせて草原の上を転がす。繊維が絡み合って厚い布になる。織らずに作る布で、空気をたっぷり含むので熱を通しにくい。これを冬は二重、三重に重ね、外から毛で編んだ縄で締める。釘も接着剤も使わない。二、三人いれば一時間から二時間で建ち、畳めばラクダや荷車に載る。
ゲルが単なる住まいでないのは、中の位置に決まりがあるからである。入口は必ず南を向く。冷たい北風を避けるためであり、同時に、頂の輪から差し込む日の光が、床や柱の上を時計回りに動いていくのを時刻の目安にするためでもある。入って正面の北が上座で、仏壇や家の宝が置かれ、客のうちで最も身分の高い者がそこに座る。入って左の西側が男の側で、鞍や馬具や武器が置かれ、右の東側が女の側で、炊事の道具や寝床が置かれる。中央には炉がある。火は神聖なもので、水をかけたり、ごみを投げ入れたりしてはならない。

敷居を踏むことも、強く戒められた。13世紀にモンゴルを訪れたローマ教皇の使節プラノ・カルピニは、宮廷の天幕の敷居に触れた者は死罪になると記している。方位と序列と禁忌を持ち、毎日の暮らしの所作がそのまま秩序を表す。ゲルは畳んで運べる、小さな宇宙だった。
起源ははっきりしない。草原の遊牧民は古くから移動できる住まいを使っており、紀元前5世紀のヘロドトス『歴史』は、黒海の北のスキタイの騎馬遊牧が家を車に載せて運ぶと書いている。その後の匈奴や突厥にも、天幕の暮らしの記録がある。ただし、格子の壁と放射状の垂木を組み合わせたいまのゲルの形が、いつどこで生まれたのかは、確かな証拠がまだ少ない。

モンゴル帝国が広がった時代(モンゴル帝国の拡大)には、ゲルは世界の中心の住まいになった。1253年から55年にかけて大ハーンの宮廷を訪れたフランシスコ会の修道士ルブルクのウィレムは、柳の枝の格子を白いフェルトで覆った家の様子を詳しく書き残した。大きなものは畳まずに車に載せたまま運び、車輪の幅が二十フィート(約六メートル)もある車を二十二頭の牛が引いていた、と彼は記す。都カラコルムには宮殿や寺院も建てられたが、ハーンたち自身は季節ごとに天幕の宮廷を移して暮らした。やがて車に載せたまま運ぶ方式は廃れ、畳んで運ぶ方式が主流になる。
ゲルはいまもモンゴルで使われている。草原の遊牧の家族だけでなく、首都ウランバートルの周りには、ゲルや簡素な家が丘を埋め尽くす「ゲル地区」が広がっている。遊牧を離れて都会へ出てきた人々が、区画を得てそこにゲルを建てたもので、市の人口の半数前後がこうした地区に暮らすとされる。上下水道が通っていないところが多く、冬には各家が石炭や薪を焚くため、ウランバートルの冬の空気の汚れは世界で最も深刻な部類に入る。動き続けることを前提に作られた家が、一か所にとどまったときに何が起きるかを、この町は示している。
一方で、ゲルは外の世界でも人気を集めている。欧米では、テュルク系の言葉に由来する「ユルト」の名で、野外で快適に過ごす宿泊施設や、簡素な暮らしを求める人の住まいとして広まった。モンゴルの人々にとって、それはいまも「ゲル」、つまり「家」である。