できごと

モヒの戦い

Battle of Mohi
AD1241年4月11日
重要度 3
モヒの戦いに関わる図版:Battle of Mohi 1241
Battle of Mohi 1241 Wikimedia Commons Anonymous illumination · Public domain

概要

バトゥの軍がハンガリー王の軍を橋の上で破った。人口の15〜25%が失われたとされる(かつては半分とも言われた)。王はアドリア海の島まで逃げ、モンゴルが去ってから石の城を各地に建てた。

場所

モヒ(シャヨー川畔)位置は特定されていない(誤差 ±10km)
47.98°N 20.93°E · ハンガリー・ミシュコルツ近郊

本文

1236年、モンゴル帝国(モンゴル帝国の拡大)は西へ大きな遠征軍を送り出した(バトゥの西征)。率いたのはチンギス・ハンの孫のバトゥで、歴戦の将スブタイが実際の作戦を支えた。遠征軍はヴォルガ川流域のブルガールを滅ぼし、草原の遊牧民キプチャク(クマン)を追い散らし、1240年にはキエフを落とした。ルーシの諸公国を踏みしだいたその先に、ハンガリー王国があった。

ハンガリーには、モンゴルに追われたクマン人の首長ケテンが、4万戸ともいわれる部族を連れて逃げ込んでいた。国王ベーラ4世はキリスト教への改宗を条件に彼らを受け入れたが、ハンガリーの貴族たちは、遊牧の暮らしを続けるクマン人を嫌った。ベーラは王権を強めるために、貴族が勝手に手に入れた王領を取り戻そうとしており、貴族との間にも溝があった。モンゴルの使者は、クマン人を引き渡せと求めていた。

1241年の春、モンゴル軍はいくつもの道に分かれてカルパチア山脈を越えた。別の一隊は北のポーランドへ入り、4月9日、レグニツァでポーランドとドイツの騎士たちの軍を破っている。ハンガリーの都ペストでは、モンゴルに内通しているという疑いをかけられたケテンが、群衆に殺された。怒ったクマン人は国内を荒らしながら南へ去り、ハンガリーは貴重な騎兵の援軍を失った。

ベーラ4世は、王国の兵を集めて北東へ進んだ。モンゴル軍がいったん引き下がったのを追い、ティサ川の支流シャヨー川のほとり、モヒ村の近くの平原に陣を敷いた。兵の数は諸説あるが、数万に及んだとされる。陣は荷車を並べて周りを囲んだもので、兵はその中にひしめき合っていた。

4月10日の夜、モンゴル軍は川に架かる橋を奪いにかかった。王の弟のクロアチア公カールマーンらがこれを撃退し、ハンガリー側は勝ったと思って陣に戻った。だが、モンゴル軍は橋の守りに投石機を向けて矢と石を浴びせかけ、橋を押し渡った。それと同時に、スブタイの率いる別の一隊が、川下で浅瀬を探し、あるいは急ごしらえの橋を架けて渡り、ハンガリー軍の背後へ回り込んだ。

4月11日の朝、ハンガリー軍は荷車の陣の中に包囲されていた。モンゴル軍は矢と火矢を浴びせ、陣を締め上げた。そして、包囲の一角をわざと開けた。逃げ道が見えると、兵たちは陣から我先に逃げ出した。モンゴルの騎兵は、ばらばらになって逃げる兵を追い、数日の道のりにわたって討ち取っていった。カロチャとエステルゴムの二人の大司教をはじめ、多くの聖職者と貴族が死んだ。カールマーンも深手を負い、まもなく死んだ。

ベーラ4世は戦場から逃れた。まず西のオーストリア公のもとへ身を寄せたが、公は助けるどころか、引き換えに国境の領地と金を奪った。王はさらに南へ逃げ、アドリア海のダルマチアの港町トロギルの、沖の島に身を隠した。モンゴル軍はその冬、凍ったドナウ川を渡って国の西半分にも攻め込み、追っ手の一隊はアドリア海の岸まで王を追ってきた。

1242年の春、モンゴル軍は突然引き上げた。前年の12月に大ハンのオゴデイが死に、その知らせが届いたためとされる。次の大ハンを決める会議に、皇族のバトゥも加わる必要があった。ただし、ハンガリーの草原では大軍の馬を養いきれなかった、雨の多い春で地面がぬかるんだ、といった別の理由を挙げる研究者もいて、決め手は無い。

荒らされた国は、悲惨な状態にあった。村は焼かれ、畑は放棄され、モンゴルが去ったあとには飢饉と疫病が続いた。失われた人口は、王国全体の15パーセントから25パーセントほどと推定されている。半分が失われたという説も古くからあるが、いまは過大とみられている。とくに平原の村々の被害が大きかった。

戻ったベーラ4世は、国を一から立て直した。それまでのハンガリーには、土と木で造った砦が多く、石の城はわずかだった。モンゴル軍は木の砦を簡単に焼き払ったが、岩山の上の石の城は落とせなかった。ベーラは貴族や教会に石の城を築くよう勧め、そのために王領を与えることもいとわなかった。ドナウ川を見下ろす丘の上には、ブダの城と町を築かせた。治世の終わりまでに、国には数十の石の城が建った。人の減った土地には、ドイツなどから入植者を招き、去ったクマン人も呼び戻した。

1285年、モンゴル(キプチャク・ハン国)は再びハンガリーに攻め込んだが、このときは城に拠った守りの前に大きな成果を上げられずに退いた。石の城の効果だった。ベーラ4世は、ハンガリーの「第二の建国者」と呼ばれる。ただ、城を持った大貴族はやがて王をもしのぐ力を持つようになり、それが王権を揺るがす種にもなった。国を守るために築いた城が、次の時代の争いの舞台になった。

同じ時代のできごと

親鸞『教行信証』AD1224年頃承久の乱AD1221年フランシスコ会則の認可AD1223年11月29日スノッリ『ヘイムスクリングラ』AD1230年頃『諸国地名辞典』AD1228年御成敗式目AD1232年(貞永元年)モンゴルの站赤AD1234年マリ帝国の成立AD1235年
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