スキタイの騎馬遊牧
概要
馬に乗って戦う集団が黒海北岸に現れた。彼ら自身は文字を持たず、記録はギリシアと中国の側にしかない。
場所
47.50°N 34.00°E · ウクライナ・ロシア南部(スキタイの活動範囲)
本文
ユーラシアの真ん中には、東のモンゴル高原から西のハンガリーの平原まで、草原がほとんど途切れずに続いている。人は早くから馬を飼いならし、車を引かせていたが、紀元前1千年紀の初めごろ、この草原で大きな変化が起きた。人が馬にじかにまたがり、群れを連れて季節ごとに移動しながら暮らし、馬上から弓を射て戦う、騎馬遊牧という暮らし方が広まったのである。
その担い手として、最初に文字の記録に名を残したのがスキタイである。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、紀元前5世紀に書いた『歴史』(ヘロドトス『歴史』)の一巻をまるごとスキタイにあてている。それによれば、スキタイはもともとアジアの奥にいたが、東の別の遊牧民に追われて西へ移り、黒海の北にいたキンメリア人を追い出してその地を奪った。キンメリア人は小アジアへ逃れて、そこの王国を荒らした(キンメリア人のゴルディオン破壊)。

スキタイの騎兵は、紀元前7世紀には西アジアにも姿を見せている。アッシリアの記録にはスキタイと見られる人々の名が現れ、ヘロドトスは、スキタイがメディアを破って28年間アジアを支配したと書いた。数字はそのまま信じられないが、騎馬の集団が古い文明の国々を脅かしたことは確かである。
彼らはまだ鐙を持たなかった。鐙が広まるのは何百年も後のことである。それでも短く強い弓を使い、走る馬の上から矢を放つことができた。農耕の国の歩兵や戦車にとって、すばやく近づいて矢を浴びせ、追えば逃げる騎兵は、捕らえようのない敵だった。

ヘロドトスは、スキタイの暮らしと習慣をこまかく描いている。家を持たず、幌をかけた車に住んで移動する。戦いで倒した敵の頭皮をはいで馬の手綱に下げ、頭蓋骨を金で飾って杯にする。王が死ぬと、大きな墓を築き、従者と馬を殺して共に葬る。麻の実を焼いた石の上に投げ入れ、小さな天幕の中でその煙を浴びて喜びの声をあげる。こうした話は長く誇張とも思われてきたが、20世紀の発掘で、裏付ける品が次々と見つかった。アルタイの山中の凍った墓からは、麻の実と、それを焼くための器が出ている。
スキタイを最も雄弁に語るのは、墓である。彼らは王や有力者のために、クルガンと呼ばれる大きな土盛りの墓を築いた。黒海の北の草原に残るクルガンからは、驚くほど精巧な金の細工が数多く出土している。鹿や豹、鷲、そして想像上の獣が、身をよじり、からみ合う姿で表されている。この表現は「動物文様」と呼ばれ、スキタイの美術の最も大きな特徴とされる。中にはギリシアの職人がスキタイのために作った品もあり、両者の深い交流を物語っている。

黒海の北岸には、ギリシア人が植民市を築いていた。スキタイは草原の穀物や家畜、奴隷を売り、ギリシアからワインやオリーブ油、金属の器を買った。スキタイの王族の中にはギリシアの暮らしに染まる者も出たが、ヘロドトスは、ギリシアの神を祀った王が同胞に殺された話を伝えている。
紀元前513年ごろ、ペルシアのダレイオス1世が大軍を率いてスキタイの地へ攻め込んだ(ダレイオスのスキタイ遠征)。スキタイは正面から戦わず、井戸を埋め、草を焼きながら後退を続け、ペルシア軍を広い草原の奥へ誘い込んだ。疲れ果てたペルシア軍は、決戦をできないまま引き返すしかなかった。広さそのものを武器にするこの戦い方は、のちの草原の民にも受け継がれた。

同じような馬具や武器、動物文様の美術は、黒海の北だけでなく、カザフスタンやアルタイ、南シベリア、モンゴル高原まで広く見つかる。南シベリアのトゥヴァでは、紀元前9世紀から8世紀ごろの大きな墓が見つかり、この文化がむしろ東で生まれて西へ広がったのではないかという説が有力になった。ペルシア人はこれら東の遊牧民をサカと呼び、中国の記録にも「塞」の名で現れる。言葉はイラン系だったと考えられている。広大な草原が、一続きの文化の世界だったことが分かる。
紀元前3世紀ごろから、黒海北岸のスキタイは東から来た同じイラン系のサルマタイに押され、クリミア半島に追い込まれて、やがて歴史から姿を消した。だが騎馬遊牧という暮らし方は消えなかった。東では匈奴(匈奴の統一)、西ではのちのフン人(フン人の西進とゲルマンの移動)と、馬に乗る人々は、それから2000年近くにわたって、農耕の帝国の歴史を揺さぶり続けることになる。