澶淵の盟
概要
宋が遼へ毎年銀と絹を送ることで戦争を止めた。屈辱と呼ばれたが、実際には120年の平和を買っている。
場所
35.76°N 115.03°E · 中国・河南省濮陽市
本文
960年に宋の成立を果たした趙匡胤とその弟の太宗は、五代の分裂を収め、南の諸国を次々に併せた。しかし、一つだけ取り戻せないものがあった。五代の後晋が契丹(遼)の建国の国に割き与えた燕雲十六州、いまの北京と大同を含む長城の南の土地である。太宗は979年と986年の二度、大軍で北へ攻め込み、いずれも大敗した。以後、宋と遼のあいだでは、国境を挟んだ小競り合いと侵攻が繰り返された。
1004年の秋、遼の聖宗と、その母で実権を握る承天太后が、自ら大軍を率いて南へ攻め込んだ。遼の騎馬の軍は宋の国境の城を迂回して南へ進み、冬には黄河の北岸の澶州(澶淵とも呼ばれた。いまの河南省濮陽市の辺り)に迫った。宋の都、開封までは、黄河を挟んでもう150キロあまりしかない。
開封の朝廷は浮き足立った。南の出身の大臣は金陵(いまの南京)へ都を移すことを、四川の出身の大臣は成都へ逃れることを、皇帝の真宗にひそかに勧めたと伝えられる。これに真っ向から反対したのが、宰相の寇準である。寇準は、皇帝が都を捨てれば国が崩れると説き、逆に皇帝自ら前線へ出るよう迫った。真宗はためらいながらも北へ向かい、黄河を渡って澶州の北の城に入った。城壁に皇帝の黄色い旗が掲げられると、兵たちは歓声を上げたという。ちょうどこのころ、遼の先鋒を率いていた将軍の蕭撻凜が、宋の弩の矢に当たって死んだ。
遼の側も、長い遠征で疲れていた。宋の城を落とせないまま敵地の奥深くに入り込み、補給は難しかった。両国は使者を往き来させ、話し合いに入った。宋の使者を務めた曹利用には、こんな逸話がある。出発の前、真宗は、毎年の贈り物が100万までなら認めると告げた。ところが寇準は曹利用を呼びつけ、30万を超えたら首を斬ると脅した。戻った曹利用が指を3本立てて見せると、真宗は300万かと驚き、30万と知って大いに喜んだという。
12月に結ばれた約束の中身はこうである。宋は遼に毎年、銀10万両と絹20万匹を贈る。これは貢ぎ物ではなく、軍の費用を助けるものという名目にした。国境は今のままとし、どちらも新しい城や堀を作らない。逃げてきた者は互いに送り返す。そして両国の皇帝は兄弟として付き合い、宋の皇帝が兄、遼の皇帝が弟とする。宋の皇帝は遼の太后を叔母と呼ぶ。中国の皇帝が、北方の君主を対等に近い相手として扱う約束だった。
宋の朝廷の中では、この講和は屈辱だという声が強かった。寇準を妬む大臣は、敵に都の近くまで迫られて結んだ「城下の盟」だと真宗に吹き込み、寇準はやがて都を追われた。体面を失ったと感じた真宗は、天から書物が下ったと称して吉兆を演出し、1008年には泰山で封禅の儀式を行って皇帝の権威を取り繕おうとした。
けれども、損得で見れば別の姿が見える。毎年の銀と絹は、宋の国家の歳入から見ればごくわずかな割合で、国境に大軍を張りつけて戦い続ける費用よりはるかに安かったとされる。国境には両国が認めた交易の市場(榷場)が開かれ、宋の茶や絹、陶磁器、書物が北へ、遼の羊や馬が南へ動いた。宋が贈った銀の多くは、こうした交易を通じて宋へ戻ってきたとも指摘されている。
1042年、宋が西の西夏との戦いに苦しんでいるところへ、遼は燕雲の南の土地の割譲を求めてきた。宋は土地は渡さず、毎年の銀と絹をそれぞれ10万ずつ増やすことで収めた。それでも、両国のあいだで全面的な戦争が起きることはなかった。両国は皇帝の即位や誕生日、正月のたびに使節を送り合い、宋の欧陽脩や蘇頌、沈括といった学者たちも使者として遼を訪れている。
この平和は、およそ120年続いた。その間に宋は、宋の科挙と士大夫が整い、印刷と商業が栄え、都市の文化が花開いた。それを支えたのは、北の国境で金を払って買った安定でもあった。ところが12世紀の初め、宋は遼の背後で興った女真の金の建国と手を結び、遼を挟み撃ちにして燕雲十六州を取り戻そうとした。1125年、遼は滅んだ。2年後、宋は手を結んだはずの金に都を攻め落とされる。それが靖康の変である。