青水の戦い
概要
リトアニアがキプチャク汗国の軍を破り、キエフとドニエプル西岸を取った。モンゴルの支配から最初に抜けた東スラヴの土地になる。
場所
48.60°N 30.90°E · ウクライナ
関わった人(1)
アルギルダスAD1296年頃–AD1377年 · 大公本文
1240年、モンゴルのバトゥの軍がキエフを攻め落とした(バトゥの西征)。かつてキエフ・ルーシの中心だった町は焼かれ、東スラヴの諸公国は、ヴォルガ川の下流に本拠を置いたキプチャク汗国に貢ぎ物を納め、その許しを得て公の位に就く立場になった。この状態は、ルーシの年代記で後に「タタールのくびき」と呼ばれることになる。
同じ頃、バルト海の南東の森と沼の地では、リトアニア人が一つの国にまとまりつつあった。リトアニアはヨーロッパで最後までキリスト教を受け入れなかった異教の国で、西からはドイツ騎士団の十字軍に攻められていた。それでも14世紀の前半、ゲディミナス大公の時代に、リトアニアは東と南へ大きく広がり、モンゴルの攻撃で弱ったルーシの公国を次々と取り込んでいった。

ゲディミナスの子のアルギルダスは、1345年に大公になると、さらに南と東へ勢力を伸ばした。アルギルダスは弟のケーストゥティスと役割を分け、弟が西でドイツ騎士団と戦うあいだ、自分は東のルーシの地に目を向けた。正教徒の妃を迎え、子どもたちをルーシの町の公に据えて、支配を広げていった。
1359年、キプチャク汗国のハンのベルディ・ベクが殺されると、汗国は激しい内紛に入った。それから20年ほどのあいだに、20人を超えるハンが立っては倒された。ルーシの年代記はこれを「大いなる混乱」と呼んでいる。実力者のママイは傀儡のハンを立てて西部を握ったが、汗国全体をまとめる力は無かった。汗国の西の端、ドニエプル川とドニエストル川のあいだの草原でも、汗国の権威は大きく揺らいでいた。

アルギルダスはこの好機を逃さなかった。1362年の秋(1363年とする説もある)、アルギルダスの軍は、今のウクライナ中部を流れる南ブグ川の支流、シニュハ川のほとりで、汗国の軍と戦った。この川は古くは「青い水」と呼ばれ、戦いの名もそこから来ている。相手は、ポジーリャ(今のウクライナ西部の草原地帯)を治めていた三人のタタールの首長の軍だったと伝えられる。リトアニア軍は勝ち、首長たちの軍は退いた。
戦いについて分かっていることは少ない。くわしく語るのは、16世紀に書かれたリトアニアやルーシの年代記で、戦いから200年近くたってからの記録である。兵の数も戦いの経過も分からず、首長の名前や戦いの年にも食い違いがある。同時代の記録がほとんど無いため、どの程度の規模の戦いだったのかもはっきりしない。

確かなのは、この前後にキエフとポジーリャがリトアニアの支配下に入ったことである。アルギルダスは子のウラジーミルをキエフの公に据え、ポジーリャには甥たちを置いた。1240年からモンゴルの支配の下にあったキエフは、120年あまりを経て、新しい主を持つことになった。リトアニアの領土は、北のバルト海の近くから、南は黒海に迫るところまで広がった。
リトアニア大公国の大部分の住民は、正教を信じる東スラヴの人々だった。大公の一族は異教徒だったが、支配した土地の宗教や習慣にはほとんど手をつけず、ルーシの言葉を役所の文書に使った。モンゴルの支配の下にとどまった北東のルーシと、リトアニアの支配下に入った南西のルーシは、こののち別々の道を歩む。前者はやがてモスクワを中心にまとまり、後者は今のウクライナとベラルーシのもとになったと考えられている。
青水の戦いから18年後の1380年、モスクワのドミトリー公が、ママイの軍をクリコヴォの戦いで破った。このときママイと手を結んでいたのは、アルギルダスの子でリトアニア大公を継いだヨガイラ(ヴワディスワフ2世)だった。ヨガイラはその後、1386年にカトリックに改宗してポーランドの王となり、リトアニアとポーランドの長い結びつきが始まる(ポーランド・リトアニア共和国)。

青水の戦いは、ウクライナとリトアニアの歴史では、モンゴルの支配から東スラヴの地が離れる最初の一歩として語られている。ただ、キエフの住民から見れば、支配者がタタールからリトアニアへ代わったことでもあった。草原の帝国が内側から崩れたとき、その周りの国々が取り分を求めて動き出した。この戦いは、その始まりを告げる出来事だった。