できごと

レヒフェルトの戦い

Battle of Lechfeld
AD955年
重要度 3
レヒフェルトの戦いに関わる図版:Lechfeld1457
Lechfeld1457 Wikimedia Commons Hektor Mülich [ 1 ] (d. 1490) · Public domain

概要

マジャール人の西への襲撃が止まった。定住してハンガリー王国になり、ヨーロッパの側に入る。

場所

レヒフェルト位置は特定されていない(誤差 ±15km)
48.30°N 10.85°E · ドイツ・バイエルン州アウクスブルク近郊

関わった人(1)

オットー1世AD912年11月23日–AD973年5月7日 · 総指揮

本文

9世紀の終わり、ウラル山脈の西の草原から移ってきた騎馬の民マジャール人が、カルパティア山脈を越えて、ドナウ川の中流に広がるパンノニアの平原に住みついた(マジャール人のパンノニア定住)。弓の名手である彼らは、馬を何頭も乗り換えながら長い距離を素早く移動した。平原に落ち着くとまもなく、彼らは西のヨーロッパへ略奪の遠征を繰り返すようになった。

899年には北イタリアを荒らし、907年にはプレスブルク(いまのブラチスラヴァ)の近くでバイエルンの軍を打ち破った。それから半世紀、マジャール人の騎兵はバイエルン、ザクセン、テューリンゲン、シュヴァーベン、さらにフランス、ブルゴーニュ、イタリアの奥まで、ほとんど毎年のように現れた。修道院や町が焼かれ、人々が捕らえられ、多くの身代金や貢納が取られた。ある遠征ではピレネーを越えてスペインにまで達している。重い鎧を着た西欧の騎士たちは、近づけば退き、退くと見せて振り返りざまに矢を射る軽騎兵の戦い方に、なかなか太刀打ちできなかった。

ハンガリー軍指揮官レール(ヨーゼフ・クリーフーバー画、1828年)
ハンガリー軍指揮官レール(ヨーゼフ・クリーフーバー画、1828年)Wikimedia Commons Josef Kriehuber · Public domain

東フランクの王ハインリヒ1世は、926年、貢納を払う代わりに9年間の休戦を取りつけた。その間に各地に城塞を築き、騎兵を鍛え直した。933年、休戦が切れて攻めてきたマジャール人を、ハインリヒはテューリンゲンのリアデで破った。この父の仕事を受け継いだのが、息子のオットー1世である。

954年、マジャール人は、オットーに対する息子リウドルフらの反乱の混乱に乗じて、ドイツからフランスまで大規模な略奪を行った。翌955年の夏、彼らは再びバイエルンに侵入し、レヒ川のほとりの町アウクスブルクを包囲した。司教ウルリヒは、城壁の低いこの町を自ら指揮して守り抜いた。ウルリヒはのちに、ローマ教皇によって正式に聖人と認められた最初の人物になる。

ミヒャエル・エヒター画『955年レヒフェルトの戦い』(1860年)
ミヒャエル・エヒター画『955年レヒフェルトの戦い』(1860年)Wikimedia Commons Michael Echter · Public domain

オットーは急いで兵を集めた。同時代のザクセンの修道士ヴィドゥキントの年代記によれば、軍はバイエルン、フランケン、シュヴァーベン、ボヘミアの兵など8つの軍団からなっていた。ザクセンの兵は、東のスラヴ人との戦いに備えて多くが残された。反乱を起こしていた婿のコンラートも、許されてフランケンの兵を率いて加わった。オットーの軍には、キリストの脇腹を刺したとされる聖槍が掲げられた。数は数千から1万ほどと見られるが、確かな数は分からない。

955年8月10日、アウクスブルクの南に広がるレヒフェルト(レヒの野)で、両軍はぶつかった。マジャール人はまず川を渡ってオットーの軍の後ろに回り込み、輜重を守っていたボヘミアの軍団とシュヴァーベンの軍団を襲って崩した。これをコンラートの率いるフランケンの騎士たちが押し返した。やがてオットー自身が主力を率いて突撃すると、マジャール人の陣は崩れた。夏の暑さで兜の紐をゆるめたコンラートは、喉に矢を受けて戦死した。

ウルリヒ十字(1600年頃)
ウルリヒ十字(1600年頃)Wikimedia Commons TrivalDespair · Public domain

勝負を決めたのは、戦場そのものより、その後の追撃だった。逃げるマジャール人は、雨で水かさを増した川に行く手を阻まれ、渡し場や村々で待ち受けたバイエルンの人々に次々に捕らえられ、討たれた。指導者のブルチュ、レヘルらは捕らえられ、レーゲンスブルクで絞首刑にされた。故郷に戻れた者はわずかだったと伝えられる。この敗北以後、マジャール人が西ヨーロッパへ略奪に来ることは二度と無かった。

ヴィドゥキントは、勝利の後、兵たちがその場でオットーを皇帝と呼んで歓呼したと書いている。同じ年の秋、オットーはエルベ川の東でスラヴ人の軍も破った。東の二つの敵を退けた王の権威は、ドイツの諸侯の間で揺るぎないものになった。7年後の962年、オットーはローマで教皇から皇帝の冠を受ける(オットー1世の戴冠)。のちに神聖ローマ帝国と呼ばれる国の始まりである。

オットー1世の肖像
オットー1世Wikimedia Commons Axel Mauruszat · Public domain

敗れたマジャール人は、その後、略奪の遠征から定住の暮らしへ向かった。ビザンツ帝国への襲撃はしばらく続いたが、それも970年ごろに止んだ。10世紀の後半、大首長ゲーザは西のドイツと結び、キリスト教の宣教師を受け入れた。その子イシュトヴァーンは1000年ごろ、ローマ教皇から王冠を受けて、ハンガリー王国の初代の王となった(イシュトヴァーン1世の戴冠)。草原から来た騎馬の民が、キリスト教のヨーロッパの王国の一つになったのである。

ただし、レヒフェルトの一戦だけがマジャール人を変えたわけではない、と見る歴史家も多い。略奪で得られる富が減り、西欧の城塞と騎兵の守りが固くなり、パンノニアの平原で農耕と牧畜を組み合わせた暮らしが根づいていたことも、定住への道を後押しした。それでも、この戦いが一つの時代の終わりを告げたことは、当時の人々にも、そして後の人々にもはっきりと意識された。ハンガリーでは、捕らえられたレヘルが角笛で敵の将を打ち殺したという伝説が語り継がれ、その角笛とされるものがいまも残っている。

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