耶律阿保機
概要
契丹の諸部をまとめて皇帝を名乗った。遊牧民と農耕民を別の制度で治める仕組みを作る。
関わったできごと(1)
契丹(遼)の建国AD916年 · 当人本文
872年、遼河の上流、シラムレン川の流域に暮らす契丹の迭剌部に生まれた。氏族は耶律氏。幼いころ一族の争いで祖父が殺され、祖母に隠されて育ったと『遼史』は書く。生まれたとき部屋が光に満ち、3か月で歩いた、といった話も並ぶが、これは建国の祖に付きものの伝説である。

契丹は8つの部族の連合で、全体をまとめる可汗は遥輦氏から出ていた。軍事を握る迭剌部の長(夷離菫)の地位に就いた阿保機は、北のタタル、西の諸部族を攻め、南では唐末の混乱に乗じて河北に繰り返し侵入した。連れ帰った漢人の農民や職人は、草原の中に城を築いて住まわせた。中国の内乱は、阿保機にとって好機だった。905年には山西の軍閥・李克用と雲州で会い、義兄弟の契りを結んで共に後梁の朱全忠を討つと約束した。だが阿保機はほどなく約束を捨て、朱全忠の側にも使いを送っている。華北の争いの双方を天秤にかけ、どちらにも従わずに利を得る道を選んだ。李克用は死に際に、この裏切りを忘れるなと息子に言い残したと伝えられる。
907年、阿保機は遥輦氏に代わって可汗に推された。同じ年、中国では唐が滅びている(唐の滅亡)。中国側の史書には、契丹の長は3年ごとに選び直され、阿保機はその慣習を破って地位を手放さなかった、とある。ただし、この「3年ごとの選挙」がどこまで実際の制度だったのかは、研究者のあいだで疑問も出されている。
確かなのは、身内の反発が激しかったことだ。911年から913年にかけて、弟たちが三度にわたって反乱を起こした。阿保機は反乱を抑えたが、弟たちの多くを許している。中国側の史書は、別の場面も伝える。退位を迫った諸部の長たちに、阿保機は、皆が食べている塩は自分の治める塩池から出ているのだから礼に来るべきだ、と言って宴に招き、酒がまわったところで殺した、という。中国側だけに残る話で、どこまで本当かは分からない。
916年、阿保機は皇帝を名乗り、年号を立てた(契丹(遼)の建国)。国号の遼が使われるのはもう少し後になる。918年には、シラムレン川の北に都となる城(のちの上京臨潢府)を築き始めた。遊牧の君主は季節ごとに移動して暮らし続けたが、城は漢人を住まわせ、役所を置き、倉と工房を集める場所になった。草原に都を持つことは、契丹の国が部族連合から王朝に変わったことの印だった。妻の述律平は政にも軍にも口を出す人物で、阿保機の留守を狙った敵を自ら兵を率いて破ったこともあった。
統治で大きいのが、二重統治の土台を置いたことになる。遊牧民は部族の慣習で、農耕民は中国式の官僚制で治める。阿保機は捕らえた漢人の韓延徽らを重く用い、城と州県を作らせ、漢人を漢人のやり方で治めさせた。北面官と南面官という形に整うのは、次の太宗の時代だが、その発想は阿保機のときに始まっている。
文字も作らせた。920年に漢字を参考にした契丹大字を定め、少し後に、ウイグル文字に学んだ表音的な契丹小字ができた。どちらも、いまだ完全には解読されていない。のちに西夏が自分の文字を作るときにも、この先例があった(西夏文字の制定)。
晩年、阿保機は西のウイグルや吐谷渾にまで兵を進め、925年の暮れには東の渤海に攻め込んだ。翌926年の初め、都の忽汗城は開城し(渤海の滅亡)、阿保機はその地に東丹国を置いて長男の耶律倍を王とした。そして帰路の扶余府で病に倒れ、7月に死んだ。55歳前後である。
述律平は夫に殉じて死ぬよう求められたが、自分の右手首を切り落として墓に納め、代わりとしたと『遼史』は書く。跡を継いだのは長男ではなく、彼女が推した次男の耶律徳光だった。徳光は936年に燕雲十六州を手に入れ、遼は長城の内側に足場を築く。
阿保機は、草原の側から、農耕地帯を含む国を作った最初の例になる。遼の仕組みは、のちの金・モンゴル帝国の拡大・清と続く、遊牧と農耕をまたぐ国々の先駆けとなった。中国の王朝の外側から、中国を統治する方法を考えた最初の人だった。