金の建国
概要
女真が遼に反旗を翻し、10年で滅ぼした。草原の帝国が、さらに北の森の民に倒される。
場所
45.52°N 126.97°E · 中国・黒竜江省ハルビン市阿城区(金の都)
関わった人(1)
完顔阿骨打AD1068年–AD1123年 · 建国本文
10世紀の初め、モンゴル高原の東から興った契丹人の遼は、華北の北辺の燕雲十六州を手に入れ、宋に毎年銀と絹を贈らせる大国になった(契丹(遼)の建国)。その遼の東北、いまの中国東北部の森と川の世界に住んでいたのが、女真人である。狩りをし、魚をとり、豚を飼い、畑を耕して暮らしていた。遼は南の方の女真を戸籍に入れて「熟女真」と呼び、遠く北の松花江の流域に住んで戸籍に入らない人々を「生女真」と呼んだ。
遼が女真に求めた貢ぎ物の中で、とりわけ重かったのが「海東青」と呼ばれる白い隼だった。遼の皇帝や貴族は鷹狩りを好み、海東青は宝物とされた。女真の人々は、さらに東の海辺の部族と戦ってこの鳥を手に入れなければならなかった。毛皮や真珠も取り立てられた。遼の使者は銀の札を身に付けて女真の村々を巡り、夜には女性を差し出させたと伝えられる。恨みは積もっていった。

11世紀の後半、生女真の中で、按出虎水(いまのハルビンの近くを流れる川)のほとりに住む完顔部が力を伸ばし、周りの部族をまとめていった。その首長の家に生まれたのが完顔阿骨打である。1112年の春、遼の天祚帝が松花江で魚をとる行事を開き、集まった女真の首長たちに宴席で順に踊るよう命じた。阿骨打だけは、踊れないと言ってかたくなに拒んだ。天祚帝は阿骨打を殺そうとしたが、側近にいさめられて思いとどまったと伝えられる。
1114年、阿骨打は2500ほどの兵で挙兵し、遼の城を落とし、続いて遼の大軍を破った。勢いを得た阿骨打は1115年の正月、皇帝の位に就き、国号を「金」とした(金(女真))。遼という名は鉄(鑌鉄)を意味するが、鉄はさびる、金はさびず変わることがない、という意味を込めたと『金史』は伝える。按出虎という川の名が女真語で金を意味したからだともいう。その年の秋、天祚帝が自ら率いた大軍を、金軍は2万ほどで打ち破ったとされる。

金の強さを支えたのは、猛安・謀克と呼ばれる仕組みだった。300戸をひとまとめにして謀克とし、10の謀克を猛安とする。戸は兵を出す単位であると同時に、暮らしの単位でもあった。普段は狩りと畑仕事をし、戦となれば一族そろって馬に乗る。この組織で、騎馬の兵が素早く集められた。阿骨打は文字も作らせ、1119年、漢字や契丹文字をもとにした女真文字が定められた。
金は1116年に遼の東京(いまの遼寧省遼陽)を落とし、1120年には遼の都の上京を取った。南の宋は、この新しい勢力に目をつけた。宋は長い間、燕雲十六州を遼から取り戻したいと願っていた。1120年ごろ、宋は海路で使者を送って金と同盟を結んだ。遼を南北から挟み撃ちにし、滅ぼしたあかつきには燕雲の地を宋に渡す、という約束である。だが宋軍は遼の南の都の燕京(いまの北京)を攻めて二度も敗れ、燕京を落としたのは結局金軍だった。宋は大金を払って、略奪され尽くした燕京とその周りをようやく受け取った。

1123年、阿骨打は遠征の帰りに病で死んだ。弟の呉乞買(太宗)が後を継いだ。1125年、西へ逃れていた天祚帝が捕らえられ、遼は滅んだ。挙兵から10年あまりのことだった。遼の皇族の耶律大石は一部の人々を率いて中央アジアに逃れ、そこで西遼を建てる。
金は宋の弱さを見抜いていた。同盟の約束をめぐる宋の背信を口実に、1125年の暮れ、南へ兵を向けた。翌年、宋の都の開封を囲み、1127年、上皇の徽宗と皇帝の欽宗をはじめ皇族や官僚数千人を北へ連れ去った(靖康の変)。宋の残った皇族は長江の南へ逃れて南宋を建てた。岳飛らの南宋の軍は金と戦い続けたが(岳飛)、1142年の和議で、両国の境は淮河に定まった。

華北の広い農耕地帯と、そこに住む何千万の漢人を治めることになった金は、遼と同じように二本立ての仕組みを取った。女真人は猛安・謀克で、漢人は州県の役所と科挙による官僚で治める。1153年には都を東北の会寧から燕京へ移し、中都と名づけた(金の燕京遷都)。これがのちの北京が中国の都になる始まりである。だが華北に移り住んだ女真人は、漢人の暮らしと言葉に染まり、騎馬の戦士の力は次第に失われていった。皇帝たちは女真の言葉と風俗を守れと繰り返し命じたが、流れは止められなかった。
1211年からは、北のモンゴル高原で一つになったチンギス・ハンの軍が金を攻めた。中都は1215年に落ち、金は開封に移って抵抗を続けたが、1234年、モンゴルと南宋に挟まれて滅んだ。建国から119年。森の民が草原の帝国を倒し、その森の民がさらに北の草原の民に倒された。

女真の人々は消えたわけではなかった。東北の故地に残った人々の子孫から、16世紀の末にヌルハチが現れ、1616年、国の名を「金」とした。歴史家はこれを後金と呼ぶ。後金は清と名を改め、17世紀に中国全土を治めることになる。