ドミトリー・ドンスコイ
概要
9歳でモスクワ大公。クレムリンを石の壁にし、諸公をまとめ、クリコヴォでモンゴルを破って「ドン川の」と呼ばれた。二年後に都を焼かれたが、汗の許しなしに大公位を息子に譲った。聖人。
所属
キエフ・ルーシ関わったできごと(1)
クリコヴォの戦いAD1380年9月8日 · 大公本文
ドミトリー・ドンスコイは、14世紀の後半にモスクワ大公を務め、クリコヴォの野でモンゴルの軍を破ったことで知られる君主である。名はドミトリー・イヴァノヴィチ。「ドンスコイ」は「ドン川の」という意味で、ドン川の上流で戦ったこの勝利にちなむが、この呼び名が記録に現れるのは死後しばらくたってからである。1350年10月12日、モスクワ公イヴァン2世の子として生まれた。

当時、ルーシの諸公はキプチャク汗国(キプチャク汗国)に貢ぎ物を納め、ハンから許可状をもらって位に就いていた。中でも、諸公の筆頭であるウラジーミル大公の位はハンの任命で決まり、有力な公たちがこれを奪い合った。ドミトリーの祖父イヴァン1世は、ハンのために他の公国からも税を取り立てる役を請け負い、その金でモスクワを豊かにして「カリタ(金袋)」と呼ばれた人である。モスクワの台頭は、ハンに仕えることから始まっていた。
1359年、父が死に、ドミトリーは9歳で公位を継いだ。幼い公を支えたのは、ルーシの教会の頂点に立つ府主教アレクシーだった。府主教は諸公との交渉を取り仕切り、大公の位をめぐってスーズダリの公ドミトリー・コンスタンチノヴィチと争い、1362年頃、ハンの許可状を少年の手にもたらした。のちにドミトリーは、この競争相手の娘エヴドキヤを妻に迎え、両家は手を結んだ。二人のあいだには十人を超える子が生まれている。

1367年、ドミトリーはモスクワの城砦クレムリンの木の壁を、白い石の壁に築き直させた。石の城壁はルーシの北東部では珍しく、モスクワはのちに「白い石の都」と呼ばれるようになる。この壁はすぐに試された。モスクワと張り合う西のトヴェリの公ミハイルが、姉妹の夫にあたるリトアニア大公アルギルダス(アルギルダス)を頼り、リトアニア軍は1368年と1370年にモスクワに攻め寄せた。いずれも石の壁に阻まれ、町を囲んだのち引き揚げた。
トヴェリのミハイルは、ハンの宮廷にも働きかけ、1371年にウラジーミル大公の許可状を手に入れた。ドミトリーはこれを認めず、汗国の実権を握る将軍ママイのもとへ自ら赴き、金を積んで許可状を取り戻した。1375年には諸公の兵を集めてトヴェリを囲み、ミハイルに自分を兄として仰ぐことを誓わせた。モスクワがルーシの諸公の上に立つ形が、しだいに整っていった。

そのころキプチャク汗国は、ハンの位をめぐる争いで割れていた。ママイは自分ではハンになれない家柄で、操り人形のハンを立てて実権を握っていた。ドミトリーはこの混乱を見て、貢ぎ物を減らし、やがて納めなくなった。1377年、ルーシの軍はピヤナ川のほとりで油断して酒宴を開いていたところをタタールの軍に襲われて大敗したが、翌1378年には、ドミトリー自ら率いる軍がヴォジャ川でママイの送った軍を破った。
1380年、ママイは大軍を集め、リトアニア大公ヤガイラとも手を結んで、モスクワを討とうとした。ドミトリーは諸公の兵を集めて南へ進み、ドン川を渡って、9月8日、クリコヴォの野でママイの軍を迎え撃った(クリコヴォの戦い)。激しい戦いの末、伏せておいた兵が横から突いて、ルーシの軍が勝った。のちの物語は、ドミトリーが目立たない兵の鎧を着て最前線で戦い、戦いのあと、倒れた木の下で気を失っているところを見つけられたと語る。出陣の前に修道士ラドネジのセルギイが祝福を与えたという話もあるが、これも後世の伝えとされる。兵の数は物語では数十万とされるが、実際はそれよりずっと少なかったと考えられている。

だが、勝利でモンゴルの支配が終わったわけではなかった。ママイはまもなく、東から来たハンのトクタミシュに敗れて滅び、汗国を一つにまとめたトクタミシュは、1382年、自ら軍を率いてモスクワに迫った。ドミトリーは兵を集めるために北のコストロマへ退いた。残されたモスクワの人々は城壁を固めて数日持ちこたえたが、ハンは危害を加えないと約束して門を開けさせ、約束を破って町を焼き、住民を殺した。年代記は、死者を葬るのに大公が多くの金を払ったことを書きとめている。
ドミトリーは貢ぎ物を再び納めることになり、長男ワシーリーを人質としてハンの宮廷に送った。ワシーリーは数年後にそこを逃げ出し、遠回りをしてリトアニアを経て帰国した。その途中で、のちのリトアニア大公ヴィタウタスの娘ソフィアとの婚約がまとまっている。

1389年5月19日、ドミトリーはモスクワで死んだ。38歳だった。死の前に書いた遺言で、彼はウラジーミル大公の位を、モスクワ公家が代々受け継ぐ領地であるかのように長男ワシーリーに譲った。ハンの許可を待たずに大公位の継承を書いたのは、これが初めてである。汗国はこれを追認した。遺言は息子たちに争うなとも命じていたが、孫の代には一族の間で長い内乱が起きた。
モンゴルへの貢納はその後も一世紀近く続き、ルーシがその支配を最終的に脱するのは15世紀の後半である。それでもクリコヴォの勝利は、ルーシの諸公がモスクワのもとに集まり、草原の軍を打ち破れることを示した出来事として記憶された。ドミトリーはロシアの愛国の英雄となり、ロシア正教会は1988年、キリスト教の受容から千年の記念の年に、彼を聖人に加えた。第二次世界大戦中には、正教会の信者の献金で作られた戦車部隊が「ドミトリー・ドンスコイ」と名づけられ、前線に送られている。