人物

ブミン可汗

Bumin Qaghan
? – AD552年
突厥重要度 3

概要

柔然に仕える鉄工の部族の長だった。主君の娘を求めて断られ、翌年その主君を倒して可汗になる。即位の年に死んだ。

所属

突厥

関わったできごと(1)

突厥可汗国の成立AD552年 · 初代可汗

本文

アルタイ山脈の南で、鉄を作っていた部族の長になる。中国の史書には「土門」の名で出てくる。8世紀の突厥自身の碑文にある「ブミン」と同じ人物と見られている。生年は分からない。

ソグド人商人アン・ジャ(左)と突厥の首長(右)の対面を描いた図、579年、西安・安伽墓
ソグド人商人アン・ジャ(左)と突厥の首長(右)の対面を描いた図、579年、西安・安伽墓Wikimedia Commons 579 CE artist · Public domain

6世紀の初め、モンゴル高原を押さえていたのは柔然だった。突厥はその支配下の一部族で、柔然のために鉄を鍛えて納めていた。「鍛奴」と中国側の史料は書く。祖先は狼に育てられた少年で、その子孫が阿史那氏になった、という起源の伝説を持っていた。狼の頭をかたどった旗は、のちまで突厥の王家の印になる。

主君の柔然は、5世紀から北魏と争ってきた遊牧国家で、君主の称号に可汗を使った早い例として知られる。突厥の可汗の称号も、柔然から受け継いだものだった。ブミンの時代の阿那瓌可汗は、若いころ一族の内紛で北魏に亡命し、北魏の後押しで返り咲いた人物である。北魏が東西に分かれると、東魏と婚姻を結び、草原から華北の情勢を左右していた。

そのころ、華北の北魏は東西に分かれ(東魏と西魏の分裂)、西魏と東魏はそれぞれ草原の勢力を味方につけようとしていた。柔然は東魏と結んでいた。545年、西魏の実力者・宇文泰は、ソグド人の安諾槃陀を使者として突厥に送った。突厥の人々は、大国の使者が来た、我らの国は栄えるだろう、と喜び合ったと『周書』は伝える。商いの道をたどって草原を行き来するソグド商人(ソグド商人のネットワーク)が、ここでも外交の担い手になっている。翌年、土門は西魏に使いを返し、特産を献じた。

546年、柔然に従っていた鉄勒の諸部族が、柔然を攻めようと兵を挙げた。土門はこれを途中で迎え撃って降し、5万あまりの家を配下に加えた。主君への奉公のつもりでもあり、自分の力を示す機会でもあった。その功を盾に、柔然の阿那瓌可汗に娘を妻に求めた。断られた。「お前は私の鍛奴ではないか、よくもそんなことが言えたものだ」と。

土門は使者を殺し、柔然と手を切った。代わりに西魏に妻を求め、551年、西魏は長楽公主を嫁がせた。後ろ盾を得た翌552年、土門は柔然を攻め、懐荒鎮の北で大破した。阿那瓌は自ら命を絶つ。土門は伊利可汗を名乗り、妻を可敦と呼ばせた。草原の主人が入れ替わった瞬間だった(突厥可汗国の成立)。

その年のうちに死んだ。何が死因だったのかは伝わっていない。子の乙息記可汗が短く継いだ後、別の子の木杆可汗が残る柔然の勢力を追い払い、草原の東西に国を広げた。柔然の残党の一部は西へ逃れたとされ、のちにヨーロッパに現れたアヴァール人と結びつける説もあるが、確かではない。

弟のイステミは西へ向かった。ササン朝のホスロー1世(ホスロー1世の改革)と手を組み、中央アジアのエフタルを挟み撃ちにして滅ぼした。イステミの使節は、ソグド人の商人を伴ってコンスタンティノープルまで行き、東ローマ帝国と絹の交易を話し合っている。ブミンの死から10年ほどで、突厥はモンゴル高原からアラル海の近くまでを押さえる国になった。中国の北周と北斉は、競って突厥に絹を贈り、機嫌をとった。

ブミン自身については、確かなことはほとんど分からない。一族の伝説と、中国の史書に残るわずかな記事だけで、人柄を伝える話も残っていない。主君に辱められて立ち上がった鍛冶の部族の長、という筋書きは、それ自体が後の世代にとっての建国の物語だった。

8世紀に立てられたオルホン碑文は、突厥文字でこう語り始める。上に青き天、下に褐色の地が造られたとき、その間に人の子が造られた。人の子の上に、わが祖先ブミン可汗とイステミ可汗が君臨した、と。突厥はいったん唐に服属し、7世紀の末に再び独立した。その再興の世代、毘伽可汗の兄弟たちが、200年近く前の祖先の名を碑に刻んだ。トルコ系の言葉で書かれた最古の記録の書き出しに、ブミンの名は置かれている。いまのトルコ共和国でも、突厥は自分たちの祖先の国の一つとして教えられている。

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