できごと

クリコヴォの戦い

Battle of Kulikovo
AD1380年9月8日
重要度 4
クリコヴォの戦いに関わる図版:Dmitry Donskoy in the Battle of Kulikovo
Dmitry Donskoy in the Battle of Kulikovo Wikimedia Commons Adolphe Yvon · Public domain

概要

モスクワ大公が諸公を集めてドン川を渡り、キプチャク汗国のママイを破った。ルーシがモンゴルに勝った最初。二年後にトクタミシュがモスクワを焼き、貢納は100年続いたが、話はこの日から始まる。

場所

クリコヴォの野
53.67°N 38.64°E · ロシア・トゥーラ州

関わった人(1)

ドミトリー・ドンスコイAD1350年10月12日–AD1389年5月19日 · 大公

本文

13世紀の半ばにモンゴルに征服されてから(バトゥの西征)、ルーシの諸公は、ヴォルガ川の下流に都を置くキプチャク汗国(キプチャク汗国)のハンに貢ぎ物を納め、ハンの許し状をもらって位に就いていた。だが1359年ごろから、汗国はハンが次々に殺され入れ替わる内紛に陥った。そのなかで汗国の西半分を握ったのが、将軍ママイである。ママイはチンギス・ハンの血を引いていなかったため、自らハンを名乗ることはできず、血筋の者を傀儡のハンに立てて実権を振るった。

そのころ、ルーシの諸公の中で頭角を現していたのがモスクワである。ドミトリー・イヴァノヴィチ(ドミトリー・ドンスコイ)は9歳で父を失い、府主教アレクシーらに支えられて、1362年にウラジーミル大公の位を確保した。1367年、モスクワの木の城壁を白い石の城壁に建て替え、1368年と1370年には、西から攻めてきたリトアニア大公アルギルダスを城壁で防いだ。1375年にはライバルのトヴェリ公を屈服させた。

Yvon kremlin
Wikimedia Commons Adolphe Yvon · Public domain

ドミトリーは、混乱する汗国への貢納を減らし、やがて止めた。ママイは懲罰の軍を送ったが、1378年、オカ川の支流ヴォジャ川の戦いで、ドミトリーの軍はママイの将ベギチの軍を破った。ルーシの軍がモンゴルの大軍に正面から勝った、最初の戦いである。

1380年、ママイはみずから大軍を率いてルーシに向かった。リトアニア大公ヨガイラ(ヴワディスワフ2世)と、モスクワと張り合うリャザン公オレーグと手を結び、合流してモスクワを挟み撃ちにする計画だった。ドミトリーは諸公に呼びかけて兵を集めた。のちの物語によれば、出陣の前、ドミトリーは修道院長セルギー・ラドネシスキーを訪ねて祝福を受け、セルギーはペレスヴェートとオスリャービャという二人の修道士を戦士として付けたという。ただしこの話は後世の作で、史実かどうかは分からない。

ヴォジャ河畔の戦い(1378年8月11日) 16世紀の細密画
ヴォジャ河畔の戦い(1378年8月11日) 16世紀の細密画Wikimedia Commons Anonymous Russian manuscript illuminators, 1560-1570s Facial Chronicle (Illustrated Chronicle of Ivan the Terrible) (in · Public domain

ドミトリーは、ママイが同盟軍と合流する前に戦うことを選んだ。9月7日の夜、ルーシの軍はドン川を渡った。橋を壊して退路を断ち、背水の陣を敷いたと伝えられる。戦場は、ドン川とネプリャドヴァ川に挟まれたクリコヴォの野(「シギの野」)である。1380年9月8日、聖母生誕の祝日の朝、野には霧が立ちこめていた。

伝えによれば、戦いはペレスヴェートとママイの側の勇士チェルベイの一騎打ちで始まり、二人は相打ちになった。ママイの騎兵はルーシの軍を押しまくり、左翼を崩した。そのとき、森に隠れていた伏兵の連隊が、敵の背後から襲いかかった。率いたのは、ドミトリーの従兄弟ウラジーミル・アンドレーヴィチと、歴戦の将ボブロクである。ママイの軍は崩れ、ママイは逃げた。ドミトリーは大公の甲冑を家臣に着せ、自分は一兵士の姿で戦い、戦いのあと、倒れた木の下で気を失って倒れているのを見つけられたという。この戦いにちなみ、彼はのちに「ドンスコイ(ドン川の)」と呼ばれる。

「クリコヴォの戦い」 1890年代のルボーク(民衆版画)、I.G. Blinov作
「クリコヴォの戦い」 1890年代のルボーク(民衆版画)、I.G. Blinov作Wikimedia Commons Ivan Blinov · Public domain

兵の数や死者について、年代記や物語は数十万という数を挙げるが、これは大きく膨らませたもので、実際の兵力は両軍とも数万を超えなかったとみる研究者が多い。戦場の跡からは、これまでのところ大量の遺骨や武器は見つかっておらず、戦場の正確な位置についても議論がある。リトアニアのヨガイラの軍は一日の距離まで来ていたが、敗戦を聞いて引き返した。

勝利は長続きしなかった。逃げ帰ったママイは、チンギスの血を引くハン、トクタミシュに敗れ、クリミアのジェノヴァ人の植民市に逃げ込んで殺された。汗国をまとめ直したトクタミシュは、1382年、大軍でモスクワに攻め寄せた。ドミトリーは兵を集めに北へ出ていて不在で、モスクワは欺かれて門を開き、焼かれた。年代記は、死者を2万4000人と伝えている。ドミトリーはふたたびハンに貢ぎ物を納めることになった。

「クリコヴォのドミートリー・ドンスコイ」 ヴァシーリー・サザノフ(ロシア語版)画、1824年。
「クリコヴォのドミートリー・ドンスコイ」 ヴァシーリー・サザノフ(ロシア語版)画、1824年。Wikimedia Commons Vasily Sazonov · Public domain

それでも、何かが変わっていた。1389年に死んだドミトリーは遺言で、大公の位を、ハンの許しを待たずに、モスクワの家の世襲の財産として息子ワシーリーに譲った。ハンもこれを認めざるを得なかった。モスクワは、モンゴルに勝った大公の都として、ルーシの諸公の上に立ち始めた。ルーシがハンへの貢納を最終的に断ち切るのは、ちょうど100年後の1480年、ウグラ川で両軍がにらみ合ったまま、ハンの軍が退いたときである。

クリコヴォの勝利は、まもなく叙事詩『ザドンシチナ(ドン川の彼方の物語)』に歌われ、のちには『ママイとの合戦の物語』がさまざまな伝説を付け加えた。ロシアの民族の物語の中で、この戦いは、モンゴルの支配から立ち上がる始まりの日として語られてきた。1988年、ルーシのキリスト教受容1000年を記念するロシア正教会の会議で、ドミトリー・ドンスコイは聖人に加えられた。

同じ時代のできごと

ハウサ諸都市とカノAD11〜15世紀マショー『ノートルダム・ミサ』AD1360年頃青水の戦いAD1362年明の成立AD1368年ティムール帝国の拡大1370年トランプの伝播AD1370年頃『平家物語』と琵琶法師AD1371年ラグーサの検疫AD1377年7月27日
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