スヴャトスラフ
概要
イーゴリとオリガの子。母は改宗し、彼は「従士が笑う」と拒んだ。ハザールを滅ぼし、ブルガリアを取り、ビザンツと戦って和し、帰り道でペチェネグに殺された。頭蓋骨が杯になった。長い口髭と剃った頭、片耳のリング。「私はあなたを攻めに行く」と先に伝えた。
所属
キエフ・ルーシ関わったできごと(1)
ハザールの滅亡AD965年 · 攻めた本文
スヴャトスラフ1世は、10世紀の後半にキエフ・ルーシを率いた大公で、ハザールを滅ぼし、ブルガリアに攻め入り、ビザンツ帝国と戦った戦士の君主である。943年頃、キエフ大公イーゴリと妃オリガの子として生まれた。スカンディナヴィア系の名を持つ父母のもとで、初めてスラヴ語の名を名乗った大公でもある。生涯の多くは、12世紀の初めにまとめられた『原初年代記』と、ビザンツの歴史家レオン・ディアコノスの記録から知られる。

945年、父イーゴリは、貢ぎ物を取り立てに行った森の民ドレヴリャーネの地で、二度目の取り立てを企てて殺された。年代記によれば、まだ幼いスヴャトスラフの代わりに国を治めた母オリガは、残酷な復讐を果たした。求婚に来た使者を舟ごと穴に埋め、次の使者を浴場で焼き殺し、最後は鳩と雀の尾に火をつけて放ち、敵の町を焼いたという。これらは民話めいた語りで、そのまま事実とは受け取れないが、オリガが強い摂政として国をまとめたことは確かとされる。
950年代、オリガはコンスタンティノープルを訪ねて洗礼を受けた。年代記によれば、母は息子にも洗礼を勧めたが、スヴャトスラフは、自分だけが新しい教えを受ければ従士たちが笑うと言って拒んだ。ただ、洗礼を望む者を止めはせず、からかうだけだったという。
年代記は、成人したスヴャトスラフの姿をこう描いている。豹のように身軽に歩き、荷車も鍋も持たずに遠征し、馬や獣の肉を薄く切って炭火で炙って食べ、天幕も張らずに鞍敷きを敷いて鞍を枕に眠った。そして攻める前には、相手に使者を送って、お前たちを攻めに行く、と告げたという。誇り高い戦士としての理想像を描いた記述だが、彼の戦いぶりの速さと遠さは、ほかの史料からも確かめられる。
964年頃、スヴャトスラフはオカ川流域のヴャティチの民を従え、翌965年頃、東の大国ハザールに攻め込んだ(ハザールの滅亡)。ハザールはヴォルガ川の下流を中心に、2世紀以上にわたって草原の交易を握り、スラヴ人の一部からも貢ぎ物を取ってきた国である。スヴャトスラフはドン川沿いの要塞サルケルを落とし、カフカスの北のヤス人やカソグ人も破った。都イティルもこのころ荒らされたと見られ、ハザールの力はこれを境に急速に衰えた。

967年頃、ビザンツ皇帝ニケフォロス2世フォカスの使者が、多額の金を携えてキエフにやって来た。皇帝と対立するブルガリアを北から攻めてほしい、というのである。スヴャトスラフはこれに応じて大軍でドナウ川を下り、ブルガリアの町々を次々に落として、ドナウの河口近くのペレヤスラヴェツに腰を据えた。ところが留守のキエフを遊牧民ペチェネグが囲み、老いたオリガと孫たちは籠城を強いられた。キエフの人々は、公よ、あなたは異国の地を求めて自分の地を捨てた、と使いを送って彼を責めた。
急いで戻ってペチェネグを追い払ったものの、スヴャトスラフの心はドナウにあった。年代記によれば、彼は母に、自分はキエフにいたくない、ペレヤスラヴェツこそ自分の地の中心だ、そこにはギリシアから金と絹と酒と果物が、チェコとハンガリーから銀と馬が、ルーシから毛皮と蝋と蜜と奴隷が集まってくる、と言った。オリガは、自分が死ぬまで待ってほしいと頼み、969年に死んだ。スヴャトスラフはキエフを長男ヤロポルクに、森の民の地を次男オレーグに、北のノヴゴロドをまだ幼い庶子のウラジーミル(ウラジーミル1世)に任せ、ドナウへ去った。

ブルガリアに戻った彼は、都プレスラフを押さえ、さらに南のトラキアへ攻め込んだ。レオン・ディアコノスは、彼がフィリッポポリスを落として二万人を串刺しにしたと書いている。ここに至って、ビザンツはルーシを招き入れたことの代償を思い知らされた。ニケフォロスを殺して帝位に就いたヨハネス1世ツィミスケスは、970年にアルカディオポリスでルーシ軍を退け、971年には自ら大軍を率いてバルカンの山を越えた。プレスラフはたちまち落ち、スヴャトスラフはドナウ河畔の要塞ドロストロン(いまのブルガリアのシリストラ)に追い詰められた。
包囲は3か月に及び、ルーシ軍は何度も打って出たが、飢えと損害に耐えられなくなった。971年7月、スヴャトスラフは講和を結び、ブルガリアから引き揚げ、二度とビザンツを攻めないと誓った。講和のあと、二人の君主はドナウの岸で顔を合わせた。レオン・ディアコノスはそのときのスヴャトスラフの姿を書き残している。彼は小舟に乗って、従士たちと一緒に櫂を漕いで現れた。中背で、眉が濃く、目は青く、鼻は低く、長い口ひげを垂らし、頭を剃り上げて一房だけ髪を残していた。片耳には、二つの真珠に紅玉を挟んだ金の耳輪を下げ、服は清潔なほかは従士と変わらなかったという。

翌972年の春、スヴャトスラフはキエフへ帰る途中、ドニエプル川の早瀬でペチェネグの待ち伏せに遭った。ビザンツの側が、講和の後でペチェネグに彼の帰り道を知らせたとも言われる。彼は討ち取られ、ペチェネグの首長クリャは、その頭蓋骨に金を張って杯にした。杯には、異国の物を求めて自分の物を失った、という意味の言葉が刻まれていたと、後の年代記は伝えている。
彼の死後、三人の息子は争い、最後に勝ち残ったウラジーミルが、父の拒んだキリスト教を国の宗教とした(キエフ・ルーシの改宗)。キリスト教の年代記作者にとって、スヴャトスラフは異教のまま死んだ君主だったが、同時にその勇猛さを隠さず書きとめるべき英雄でもあった。お前たちを攻めに行く、という短い言葉は、のちのロシアやウクライナで、まっすぐな戦士の気概を表す言葉として語り継がれている。彼が倒れたドニエプルの早瀬は、20世紀に造られたダムの湖の底に沈んだ。