人物

アルプ・アルスラーン

Alp Arslan
AD1029年頃 – AD1072年(享年43・推定)
セルジューク朝重要度 3

概要

マンジケルトでビザンツ皇帝を捕虜にした。アナトリアがテュルクの土地になる入口を開く。

所属

セルジューク朝

関わったできごと(1)

マンジケルトの戦いAD1071年8月26日 · セルジューク側 · 総指揮

本文

本名はムハンマド。アルプ・アルスラーンはテュルク語で「勇ましい獅子」を意味する呼び名である。1029年ごろ、セルジューク家のチャグリ・ベグの子として生まれた。セルジューク家は、中央アジアの草原から南へ移ってきたオグズと呼ばれるテュルク系の遊牧民の一族で、父チャグリと叔父のトゥグリル・ベグの兄弟が、11世紀の前半にイランの東部ホラーサーンを奪い、一代で大きな国を作った(セルジューク朝)。叔父のトゥグリル・ベグは1055年にバグダードに入り、アッバース朝のカリフからスルタンの称号を受けている。

マラーズギルドの戦い
マラーズギルドの戦いWikimedia Commons Rohan Master · Public domain

若いアルプ・アルスラーンは、父のもとでホラーサーンの軍を率いて育った。1059年ごろに父が死ぬと、その地位を継いだ。1063年、子の無かった叔父トゥグリルが死ぬと、一族の間で後継の争いが起き、彼は従兄弟たちを破って、翌年スルタンの座に就いた。

彼の政治を支えたのは、ペルシア人の宰相ニザームルムルクだった。遊牧の戦士の長が、イランの古い役人の伝統を持つ宰相に国の運営を任せる。この組み合わせが、セルジューク朝を草原の部族連合から大きな国家に変えた。ニザームルムルクは各地に学院を建て、学者を育てた(ニザーミーヤ学院の創設)。

ロマノス4世ディオゲネスに屈辱を与えるアルプ・アルスラーン
ロマノス4世ディオゲネスに屈辱を与えるアルプ・アルスラーンWikimedia Commons Boccace, De Casibus · Public domain

即位したアルプ・アルスラーンは西へ向かった。1064年、ビザンツ帝国とアルメニアの境にある古都アニを攻め落とした。その後もテュルク系の戦士の集団は、東アナトリアのビザンツ領に入り込んで略奪を繰り返した。ただし、スルタン自身の主な狙いは、エジプトのファーティマ朝だったとされる。ファーティマ朝はシーア派のカリフを立てる王朝で、スンナ派のカリフを守ることを名目にするセルジューク朝にとって、最大の敵だった。1071年、スルタンはシリアに入り、アレッポを服属させた。

そこへ、ビザンツ皇帝ロマノス4世ディオゲネスが大軍を率いて東アナトリアに進んでいるという知らせが届いた。アルプ・アルスラーンは急いで引き返し、1071年8月、ヴァン湖の北のマンジケルト(マラズギルト)の近くで皇帝の軍と向き合った(マンジケルトの戦い)。

マンジケルトの戦いに関わる図版:Battle of Manzikert (1071)
マンジケルトの戦いWikimedia Commons O.Mustafin · Public domain

ビザンツ軍は数では上回っていたが、傭兵の寄せ集めで、内部にも皇帝の政敵を抱えていた。テュルクの騎兵は、退くふりをして敵を引きつけ、遠くから矢を浴びせては離れる戦い方を繰り返した。日が暮れて皇帝が陣に戻ろうと向きを変えたとき、後衛を率いていた政敵の将軍が軍を率いて戦場を離れ、ビザンツ軍は崩れた。皇帝ロマノスは傷を負って捕らえられた。ビザンツの皇帝がイスラームの君主の捕虜になったのは、これが初めてだった。

捕らえられた皇帝の扱いについては、後のアラブの歴史家たちが印象深い場面を書いている。スルタンは儀礼として皇帝の首を足で踏んで服従を示させた後、起こして手厚くもてなした。そして、もし私があなたの捕虜になっていたら、どうしたか、と尋ねた。皇帝が、おそらく殺すか、コンスタンティノープルの街を引き回しただろう、と答えると、スルタンは、私はそうはしない、と言った、という。場面の細部は語り手によって違うが、スルタンが身代金と毎年の貢納、捕虜の解放などを条件に、1週間ほどで皇帝を解放したことは、ビザンツ側の記録とも合っている。

ハーフィズ・アブルー『諸史集成』(1425年頃)に描かれたアルプ・アルスラーン
ハーフィズ・アブルー『諸史集成』(1425年頃)に描かれたアルプ・アルスラーンWikimedia Commons Hafiz-i Abru · Public domain

寛大な解放は、皮肉な結果を招いた。皇帝が捕らえられている間に、コンスタンティノープルでは政敵のドゥーカス家が新しい皇帝を立てていた。戻ったロマノスは内戦に敗れ、目を潰されて、まもなく死んだ。新しい政府はスルタンとの約束を認めず、混乱の中で東アナトリアの守りは崩れた。テュルク系の集団がアナトリアの中央部まで入り込み、数年のうちに、セルジューク家の分家がアナトリアに独自の国(ルーム・セルジューク朝)を作る。アナトリアがやがてテュルクの土地になっていく、長い過程の入口がここで開いた。

ただ、アルプ・アルスラーン自身がアナトリアの征服を目指していたかどうかは、疑わしいとみる研究者が多い。彼は勝利の後、深追いせず、ビザンツ領の奥へ進まなかった。戦いはむしろ、皇帝との取り決めで東の国境を落ち着かせ、本来の敵であるファーティマ朝や、東方の敵に向かうための一戦だったとも考えられている。

アルプ・アルスラーンを描いた細密画(『集史』、1654年のオスマン朝写本)
アルプ・アルスラーンを描いた細密画(『集史』、1654年のオスマン朝写本)Wikimedia Commons Diabolin80 · Public domain

彼にその先は無かった。翌1072年、中央アジアのカラハン朝を討つためにアム川を越えたところで、捕らえられて連れてこられた城主ユースフが、引き据えられた場で隠し持っていた短剣で斬りかかった。スルタンは弓の腕に自信があり、護衛を下がらせて自ら射ようとしたが、矢が外れ、深い傷を負って数日後に死んだ。40代の初めだった。死に際に、自分の力を過信したことを悔やむ言葉を残したと伝えられる。遺体はメルヴに葬られた。

あとを継いだ子のマリク・シャーの時代に、セルジューク朝は最盛期を迎え、ニザームルムルクは統治の心得を説いた『統治の書』を書いた。一方、マンジケルトの後の東方の危機に追われたビザンツ皇帝は、西方に助けを求める。それが20年あまり後の十字軍の呼びかけにつながっていく。トルコでは、マンジケルトの戦いはアナトリアへの「入口」として記憶され、毎年8月に記念の式典が開かれている。

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