靖康の変

概要
金が宋の都を落とし、皇帝父子を北へ連れ去った。宋は南へ逃げ、以後は中国の南半分の王朝になる。
場所
34.80°N 114.31°E · 中国・河南省
関わった人(1)
完顔阿骨打AD1068年–AD1123年 · その弟が本文
12世紀の初め、宋の都、開封は世界でも有数の大都市だった。運河で江南の米と物資が集まり、城内には夜まで開く市場や盛り場がひしめいた。その都で帝位にあった徽宗は、書と画にすぐれ、細く鋭い「痩金体」と呼ばれる書風を生み、宮廷の画院を自ら指導した芸術家の皇帝である。一方で、珍しい石や花木を江南から都へ運ばせて庭園を飾り(花石綱)、その取り立てに苦しんだ江南では1120年に方臘の大反乱が起きた。この時代の世の乱れを背景にした物語が、後の『水滸伝』である。
北の国境では、情勢が大きく動いていた。澶淵の盟以来100年あまり、宋と遼は平和を保っていたが、遼の支配を受けていた東北の女真が背き、1115年に完顔阿骨打が金の建国を宣言した。宋はこれを、かつて遼に奪われた燕雲十六州を取り戻す好機と見た。1120年ごろ、宋は海を渡って使者を送り、金と遼を挟み撃ちにして、遼が滅んだら燕雲の地を宋に返すという約束(海上の盟)を交わした。

ところが宋の軍は遼の燕京(いまの北京)を落とせず、結局は金の軍が落とした。宋は金に多額の銭を払い、住民や財貨を運び去られた後の燕京などを、ようやく受け取った。宋の軍の弱さは、金の目にはっきり映った。さらに宋は、金から背いた遼の旧臣をかくまうなど、約束を破るふるまいを重ねた。1123年に阿骨打が死ぬと、跡を継いだ弟の太宗(呉乞買)は、1125年に遼の最後の皇帝を捕らえて遼を滅ぼし、その年の冬、宋に向けて兵を南へ動かした。
二手に分かれた金の軍が迫ると、徽宗はあわてて帝位を息子の欽宗に譲り、自らは南へ逃れた。1126年の初め、金の軍は開封を囲んだ。都の守りに立った李綱らの奮戦もあって、宋は莫大な金銀を差し出し、北の要地三つを渡すと約束して、金の軍を引き揚げさせた。しかし金が去ると、宋の朝廷は約束の土地を渡すことを渋り、主戦論と和平論のあいだで揺れ動いた。

その年の秋、金の軍は再び南下した。冬に開封は陥落し、欽宗は金の陣営に出向いて降伏し、そのまま留め置かれた。金は都から金銀や絹、宮廷の宝物、書物、祭器、天文の儀器まで、あらゆるものを取り立てた。都にあった水運儀象台の天文時計も、このとき分解されて北へ運ばれている。足りない分の代わりとして、宮廷の女性たちが金の陣営に差し出されたとも記録されている。
1127年の春、金は宋の旧臣の張邦昌を傀儡の皇帝に立てると、北へ引き揚げた。連れて行かれたのは、上皇の徽宗と皇帝の欽宗、皇后や妃、皇子と皇女、宗室の人々、官僚、そして医者や職人、楽人たちである。その数は数千とも1万を超えるとも伝えられる。皇族の女性の多くは金の皇族や将軍たちに分け与えられ、一部は宮廷の下働きの施設に入れられたと、金の側の記録をもとにした史料は伝えている。北へ着いた徽宗と欽宗は、金の祖先の廟の前で降伏の儀式をさせられ、それぞれ「昏徳公」「重昏侯」という辱めの称号を与えられた。徽宗は1135年、北の果ての五国城で亡くなった。この年の年号から、事件は「靖康の変」と呼ばれる。
中国の皇帝が父子ともに異民族に捕らえられ、宮廷ごと連れ去られた。この出来事は、中国の歴史の中で最も屈辱的なものの一つとして、長く語り継がれていく。
都にいなかった徽宗の九男の趙構が、1127年5月、南の応天府(いまの河南省商丘)で即位した。南宋の初代、高宗である。だが金の追撃は厳しく、高宗は江南へ逃れ、一時は海の上の船にまで避難した。やがて杭州を臨安と名づけて事実上の都とし、宋は淮河より南を治める王朝として立て直された。
朝廷では、北の失地を取り戻すべきだという主戦論と、講和して江南を守るべきだという和平論が激しく争った。前線では岳飛らの軍が金の軍を押し返していたが、宰相の秦檜は和平を進め、1141年の紹興の和議と岳飛の死で淮河を境とする講和が結ばれた。その直前、岳飛は無実の罪で獄に下され、殺された。後に岳飛は救国の英雄として祀られ、杭州の岳飛の墓の前には、秦檜夫妻らが後ろ手に縛られてひざまずく像が置かれている。
金はその後、都を北京の地へ移し(金の燕京遷都)、華北を治める王朝となった。中国の北と南は、こうしておよそ1世紀半にわたって別の王朝に分かれた。江南の開発が進み、経済と文化の重心が南へ移る流れは、この分裂でいっそう決定的になった。