エフタルの侵入
概要
中央アジアから来た勢力がグプタ朝を削り、ササン朝の王を戦死させた。草原からの圧力は西だけに向いたのではない。
場所
33.75°N 72.79°E · パキスタン・パンジャーブ州
本文
4世紀から5世紀にかけて、ユーラシアの草原ではさまざまな遊牧の集団が動いていた。西では、フン人が黒海の北に現れてゲルマン人の大移動を引き起こし(フン人の西進とゲルマンの移動)、やがてアッティラのもとでローマ帝国を脅かした。同じ頃、中央アジアのアム川の上流、かつてクシャーナ朝(クシャーナ朝の隆盛)が栄えたバクトリアの地にも、新しい支配者が現れていた。中国の史書が「嚈噠」と記し、のちにエフタルと呼ばれる人々である。
エフタルがどこから来たのかは、よく分かっていない。アルタイ山脈のあたりから南へ移ってきたとする説が多いが、言葉もはっきりしない。エフタル自身の書いた記録はほとんど残っておらず、彼らの姿は、ペルシア、ビザンツ、インド、中国という周りの国々の記録と、彼らが発行した硬貨から組み立てるしかない。6世紀のビザンツの歴史家プロコピオスは彼らを「白いフン」と呼び、アッティラのフン人とは違って肌が白く、町に住み、一人の王のもとで法に従って暮らしていると書いた。

5世紀のなかば、エフタルはバクトリアを押さえ、西のササン朝ペルシアと南のインドの両方に圧力をかけ始めた。ササン朝のペーローズ1世は、即位をめぐる争いでエフタルの助けを借りたともいわれるが、やがてエフタルと戦うようになる。一度は捕らえられ、息子を人質に出して身代金を払うという屈辱を味わった。484年、ペーローズは再びエフタルに戦いを挑み、大軍を率いて東へ向かったが、敵の罠にかかって軍は全滅し、王自身も戦死した。プロコピオスは、エフタルが草で覆った深い溝を掘り、ペルシアの騎兵をそこへ誘い込んだと伝えている。
王を失ったササン朝は、エフタルに貢ぎ物を納める立場に落ちた。のちの王カワード1世は、国内の争いで王位を追われるとエフタルのもとへ逃れ、その軍の助けで王座に返り咲いている。ペルシアの王位が、草原の勢力の意向に左右される時代がしばらく続いた。

東では、エフタルの一派、あるいはそれと近い関係の集団が、ヒンドゥークシュを越えてインドへ侵入した。インドの記録では、彼らはフーナと呼ばれる。5世紀のなかば、グプタ朝(グプタ朝の黄金時代)のスカンダグプタはフーナの侵入を退けたと碑文で誇っている。しかし侵入はその後も繰り返され、6世紀の初めには、トーラマーナとその子ミヒラクラという王が、パンジャーブから北インドの中部にまで支配を広げた。
ガンダーラやタクシラの仏教の僧院の多くは、この時期に荒廃したと考えられている。のちにこの地を訪れた唐の玄奘は、ミヒラクラが仏教を憎んで僧院を壊し、僧を殺したと記している。ただし、仏教の衰えをすべてフーナのせいにする見方には、異論もある。グプタ朝もまた、フーナとの戦いで財政と軍を消耗し、地方の王たちが自立していく中で、6世紀のなかばまでに力を失った。ミヒラクラはやがてインドの王たちの連合に敗れ、北インドはハルシャ王(ハルシャ王の北インド統一)が現れるまで、小さな王国が並び立つ状態に戻る。

なお、インドに侵入したフーナと、バクトリアのエフタルが同じ集団だったのかについては、議論がある。近年は硬貨の研究から、インドへ入ったのはアルハンと呼ばれる別の集団だったとする見方も有力になっている。名前の似たフンやフーナ、エフタルを一つの民族の大移動として語るのは、単純にすぎるかもしれない。
エフタルは、東の中国とも行き来があった。北魏には何度も使節を送り、6世紀の初めに西域を旅した北魏の僧宋雲は、エフタルの王の宮廷を訪れて、王が移動する天幕に住み、40あまりの国から貢ぎ物を受けていると記している。中国の史書は、兄弟で一人の妻を持つ習わしがあるとも書いている。

エフタルの支配は、6世紀のなかばに終わった。北のモンゴル高原から起こった突厥が西へ勢力を伸ばし(突厥可汗国の成立)、ササン朝の王ホスロー1世(ホスロー1世の改革)と手を結んで、エフタルを南北から挟み撃ちにしたのである。560年ごろ、エフタルは敗れ、その土地はアム川を境に突厥とササン朝に分けられた。エフタルの名を持つ小さな勢力は、その後もアフガニスタンの山地などにしばらく残った。
草原からの圧力は、ローマにだけ向かったのではない。5世紀から6世紀にかけて、ユーラシアの東西で、古い帝国が遊牧の勢力に揺さぶられていた。エフタルは、その動きの中央アジアからインドにかけての担い手だった。