ダレイオスのスキタイ遠征
概要
ボスポラスに船の橋を架け、ドナウを渡って草原に入った。スキタイは戦わず退き、井戸を埋め、草を焼いた。王は鳥と鼠と蛙と矢を贈られた。「鳥のように飛び、鼠のように潜り、蛙のように跳ばなければ、矢に射られる」。帰った。
場所
44.55°N 28.77°E · ルーマニア
関わった人(1)
ダレイオス1世BC550年–BC486年 · 王本文
紀元前6世紀の終わり、ペルシア王ダレイオス1世は、東はインダス川から西はエーゲ海まで、それまでの世界で最も大きな帝国を治めていた。その王が、紀元前513年ごろ、黒海の北に広がる草原へ大軍を進めた。相手は、馬に乗って家畜とともに移り住む遊牧の民、スキタイである(スキタイの騎馬遊牧)。この遠征について詳しく伝えるのは、ほぼ唯一、ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』の第4巻であり、以下の場面の多くも彼の語るところによる。
ヘロドトスは、遠征の名目を、かつてスキタイがメディアに攻め込んだことへの報復だと伝えている。だが実際の狙いは、黒海の西岸のトラキアを従え、ドナウ川の向こうの草原の民を抑えて、帝国の北西の境を固めることにあったと考えられている。ダレイオスはそれより前、中央アジアでも尖った帽子をかぶる遊牧の民を討ったことを、自らの碑文に刻んでいる。草原の民は、帝国にとって繰り返し向き合わねばならない相手だった。

遠征は、技術の見せ場から始まった。サモスの技師マンドロクレスが、ボスポラス海峡に船を並べてつないだ橋を架け、ダレイオスはそこを渡ってヨーロッパに入った。王は岸に二本の石柱を立て、従軍した民族の名を刻ませたという。ヘロドトスは軍勢を70万と記しているが、これは大きすぎる数とみられている。軍はトラキアを進み、魂は不死だと信じる民ゲタイを降して、ドナウ川に達した。そこでは、従軍したイオニアのギリシア人たちが船で二つめの橋を架けていた。ダレイオスは革紐に60の結び目を作って彼らに渡し、毎日一つずつ解け、全部解けても戻らなければ船で帰ってよい、と命じたという。
スキタイの王イダンテュルソスたちは、正面から戦わなかった。軍を分け、ペルシア軍の一日の行程ほど先を退きながら、通り道の井戸や泉を埋め、草を焼いた。ペルシアの大軍は、草原の奥へ奥へと引き込まれ、敵の姿をとらえられないまま疲れていった。業を煮やしたダレイオスは使者を送り、なぜ逃げてばかりいるのか、戦うか、さもなくば服従の印に土と水を差し出せ、と迫った。イダンテュルソスは答えた。自分は誰からも逃げてはいない、これがいつもの暮らし方だ。我々には奪われる町も、荒らされる畑も無い。ただ父祖の墓がある。それを見つけて壊そうとするなら、そのとき我々がどう戦うかが分かるだろう、と。

やがてスキタイの側から、贈り物が届いた。鳥が一羽、鼠が一匹、蛙が一匹、そして矢が5本。ダレイオスは、鼠は土、蛙は水、鳥は馬、矢は武器を差し出す印で、降伏を意味すると読んだ。だが側近のゴブリュアスは別の読み方をした。鳥となって空を飛ぶか、鼠となって地に潜るか、蛙となって水に跳び込むかしなければ、お前たちはこの矢に射られて帰れない、という意味だ、と。その後、両軍が向かい合ったとき、スキタイの兵たちは陣の前を駆け抜けた兎を追って騒ぎ出した。それを見たダレイオスは、我々はこれほど侮られている、ゴブリュアスの言うとおりだと悟り、夜、病の兵とロバを陣に残して火を焚かせ、ひそかに引き揚げたという。
退路のドナウの橋では、もう一つの選択があった。先回りしたスキタイは、橋を守るイオニア人に、橋を壊してペルシアから自由になれと説いた。のちにマラトンでペルシア軍を破る(マラトンの戦い)アテナイのミルティアデスは、それに応じようと言ったとヘロドトスは伝える。だがミレトスの僭主ヒスティアイオスは、我々が自分の町で僭主でいられるのはダレイオスのおかげだと説き、橋は残された。ダレイオスは辛くも帰還した。

ダレイオスは将軍メガバゾスに8万の兵を残してトラキアを平定させ、ドナウの南は帝国の領土に組み込まれた。その意味では、遠征は何も得なかったわけではない。だが、草原の民を屈服させるという目的は果たせなかった。動き回る相手を大軍で追っても捕まえられない。この教訓は、のちの多くの帝国が遊牧の民を相手に、何度も味わうことになる。
遠征の余波は、ギリシアへと続いた。橋を守った功で褒美を得たヒスティアイオスは、やがて力を持ちすぎることを警戒されて都スーサに留め置かれ、そこから婿のアリスタゴラスを動かして、紀元前499年のイオニアの反乱を起こさせたと伝えられる。ダレイオスに恩を売ったイオニア人の裏切りから、ペルシアとギリシアの長い戦い(物語「ペルシア戦争」)が始まるのである。