亀州の戦い
概要
契丹の第三次侵入。10万が開城の手前まで来て帰る途中、姜邯賛が亀州で待っていた。風向きが変わり、契丹は数千人しか帰れなかった。71歳の文官の将軍。高麗は契丹と和し、千里長城を築き、100年の平和を得た。
場所
39.98°N 125.24°E · 北朝鮮・平安北道
関わった人(1)
姜邯賛AD948年–AD1031年 · 将軍本文
10世紀の東アジアでは、北の草原から興った契丹が大きな力を持っていた。契丹(遼)の建国ののち、契丹は渤海を滅ぼし、華北の一部を手に入れ、1004年には澶淵の盟で宋から毎年絹と銀を受け取る約束を取りつけた。その東に、朝鮮半島をまとめた高麗があった。高麗は宋と通じており、契丹から見れば、宋と戦うときに背後を突きかねない相手だった。
最初の衝突は993年である。契丹の将、蕭遜寧が大軍を率いて攻め込み、80万と号した。高麗の朝廷には領土を割いて和を請おうという声もあったが、徐熙が敵の陣営に乗り込んで話し合った。高麗は高句麗を継ぐ国であり、だから高麗と名乗っている、むしろ契丹の旧都こそ高麗の地だ、と論じ、契丹への通交を妨げているのは鴨緑江の東に住む女真だと説いたとされる。契丹は兵を引き、高麗は鴨緑江の東の地を治めて、江東六州と呼ばれる城を築いた。高麗は宋との関係を絶ち、契丹の年号を使うことになった。

1010年、二度目の侵入が来た。高麗では重臣の康兆が穆宗を廃して殺し、顕宗を立てていた。契丹の聖宗はこれを罪として、自ら40万の兵を率いて攻め込んだ。康兆は敗れて捕らえられ、殺された。都の開京は焼かれ、顕宗は南の羅州まで逃れた。このとき、降伏を説く者に対して、いったん避けて時を稼ぐよう勧めたのが文官の姜邯賛だったと伝えられる。契丹は補給に苦しみ、顕宗の入朝を条件に兵を引いた。顕宗が入朝しなかったことと、契丹が江東六州の返還を求めたことが、次の戦いの種になった。
1018年12月、蕭排押が10万の兵を率いて三度目の侵入をした。高麗は姜邯賛を総大将とし、20万を超える兵を北に送った。姜邯賛はこのとき数えで71歳、若いころ科挙に首席で及第した文官である。最初の戦いは国境に近い興化鎮で、彼は騎兵1万2000を山あいに伏せ、牛の皮をつないで川を堰き止めておき、契丹軍が渡るところで堰を切って水を流し、伏兵に襲わせたと『高麗史』は記す。
契丹軍はそれでも南へ進み、開京の近くまで迫った。高麗は都の周りの住民を城内に入れ、野の作物を取り払って、敵が食べ物を得られないようにした。攻め落とす見込みを失った契丹軍は、年が明けると北へ引き返しはじめた。姜邯賛は、その帰り道に待っていた。
1019年2月、両軍は亀州の東の野でぶつかった。はじめは互角だったが、戦いのさなかに風雨が南から吹きつけ、旗が北へなびいたと『高麗史』は書く。高麗軍は風を背にして攻めかかり、別の部隊を率いた金宗鉉が加わると、契丹軍は崩れた。死体が野を覆い、捕らえた人馬や武具は数えきれず、生きて帰った者は数千にすぎなかったという。帰った蕭排押は、聖宗に厳しく責められたと伝えられる。
勝って都に戻る姜邯賛を、顕宗は自ら迎えに出て、金の花を髪に挿してねぎらったという。
この勝利で、両国はやがて和を結んだ。高麗は再び契丹の年号を用い、形の上では臣下の礼をとったが、江東六州は手放さなかった。契丹もそれ以上の大きな侵入をしなかった。高麗は1033年から、鴨緑江の河口から東の海岸まで、石と土の長城を築きはじめ、十数年をかけて完成させた。千里長城と呼ばれる。
それから契丹が滅びるまでのおよそ100年、高麗と契丹のあいだには大きな戦争が起きなかった。宋・契丹・高麗が互いに手を出しにくい釣り合いが生まれ、高麗はその間に、宋とも民間の交易や文化の行き来を続けた。11世紀の高麗は、文化の面で最も豊かな時代の一つに入っていく。
『高麗史』の伝は、姜邯賛を小柄で顔が醜く、身なりに構わない人だったと描いている。生まれた夜に大きな星が家に落ちたという伝説があり、ソウルの冠岳区にある落星垈という地名はその言い伝えにちなむ。どれも後の人が語り伝えた話で、事実かどうかは確かめられない。
韓国では、隋の大軍を退けた薩水の戦いの乙支文徳、壬辰倭乱で日本の水軍を破った李舜臣とともに、亀州の姜邯賛を、外敵を大きく破った三人の名将として学校で教える。戦いのあった亀州は、いまの北朝鮮の平安北道亀城市にあたる。