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Event / できごと

亀州の戦い

Battle of Gwiju
AD1019年
重要度 3

概要

契丹の第三次侵入。10万が開城の手前まで来て帰る途中、姜邯賛が亀州で待っていた。風向きが変わり、契丹は数千人しか帰れなかった。71歳の文官の将軍。高麗は契丹と和し、千里長城を築き、100年の平和を得た。

場所

亀州(亀城)
39.98°N 125.24°E · 北朝鮮・平安北道

関わった人(1)

姜邯賛AD948年–AD1031年 · 将軍

本文

契丹。遼。 993年、第一次。蕭遜寧が80万と言って来た。徐熙が陣に行って話した。「高麗は高句麗の後。だから高麗。国境は鴨緑江まで」。「宋と切って遼に事える」。契丹が引き、鴨緑江の東の江東六州を高麗が得た。 1010年、第二次。聖宗が自分で40万。康兆が穆王を殺して顕宗を立てたのを口実に。西京が持ちこたえ、開城は焼かれ、王は羅州へ逃げた。姜邯賛が「勝てない。避けよ」と勧めた。聖宗は帰った。 1018年12月、第三次。蕭排押が10万。 姜邯賛、71歳、西北面行営都統使。20万8000。 興化鎮。三橋川。1万2000の騎兵を谷に伏せ、牛皮で川を堰いて、契丹が渡るとき切った。 契丹は開城へ向かった。姜邯賛は追わず、開城の手前で兵を置いた。契丹は都を攻めきれず、帰った。 1019年2月、亀州。 東の野。契丹が北へ帰る道。 はじめ互角。南風が急に北風に。矢が契丹に向かって飛んだ。金宗鉉の兵が後ろから。 「死体が野を覆い、捕えた人馬と甲冑と兵器は数えきれない。生きて帰ったのは数千」。 蕭排押は帰って聖宗に「お前の顔の皮を剥いで殺す」と言われた。

1020年、和した。高麗は遼の年号を使い、遼は江東六州を認めた。 1033年から千里長城。鴨緑江の口から東海まで。 100年、契丹は来なかった。 顕宗は姜邯賛を迎えに出て、金の花を髪に挿した。 姜邯賛は小柄で衣服が汚く、顔は醜かった、と『高麗史』。星が落ちた夜に生まれ、宋の使者が「文曲星が久しく見えない、ここにいたか」と拝んだ。ソウルの冠岳区の落星垈。 1031年、84歳。 壬辰倭乱の李舜臣、亀州の姜邯賛、薩水の乙支文徳。「三大大捷」。韓国の教科書で。 「亀州」。北朝鮮の亀城。核施設で知られる街。

同じ時代のできごと

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