ウイグル可汗国

概要
安史の乱で唐を助け、見返りに絹を得た。840年にキルギスに敗れて西へ移り、オアシスに定住する。
場所
47.56°N 102.83°E · モンゴル・ウブルハンガイ県(突厥碑文の地)
本文
8世紀の前半、モンゴル高原を治めていたのは突厥の第二の可汗国だった(突厥可汗国の成立)。毘伽可汗の功績を刻んだオルホン碑文は、その最後の輝きを伝えている。だが可汗の死後、突厥は内紛で弱り、従っていたトルコ系の諸部族が背いた。744年、その一つウイグルが、他の部族と手を組んで突厥を倒し、自分たちの可汗を立てた。
ウイグルの名を大きくしたのは、唐の危機だった。755年、唐で安史の乱が起き、反乱軍は長安と洛陽を落とした。唐はウイグルに助けを求め、757年、ウイグルの騎兵は唐軍とともに両都を取り戻した。その代わりに、ウイグルは洛陽で略奪することを許され、唐の皇女が可汗に嫁いだ。762年にも再び出兵し、乱の鎮圧を助けている。

見返りは絹だった。乱の後、唐とウイグルの間では、馬と絹を交換する取り引きが定着した。馬一頭に絹40匹という率だったとされ、ウイグルは毎年大量の馬を送り込んで、絹を受け取った。送られてくる馬には弱いものも多く、唐の財政には重い負担になった。ウイグルはその絹を西へ流し、ソグド商人のネットワークで知られるソグドの商人たちの手で、さらに遠くへ運ばれた。
ソグド人はウイグルの宮廷でも大きな力を持った。762年、洛陽に入った牟羽可汗は、そこでソグド人のマニ教の僧に出会い、教えを受けて帰国した。やがてマニ教はウイグルの国の宗教になる。善と悪、光と闇の二つの原理の戦いを説くこの宗教は、3世紀のペルシアで生まれ(マニ教の成立)、各地で迫害されてきた。国の宗教として採り入れたのは、知られる限りウイグルだけである。都の近くに建てられた碑には、トルコ語、ソグド語、漢文の三つの言葉で、可汗の改宗のいきさつが刻まれた。

遊牧の国家が、城壁に囲まれた都を築いたことも特筆される。オルホン川のほとりのオルド・バリクは、高い城壁に囲まれ、宮殿と寺院、市場と農地を備えていた。9世紀の初めにここを訪れたアラブの旅人は、12の鉄の門を持つ大きな町で、人が多く、市場がにぎわっていた、と書いている。ソグドの文字をもとにしたウイグル文字もこの頃に使われ始めた。この文字はのちにモンゴル文字の手本になり、さらに満洲文字へと受け継がれる。
だが、繁栄は長く続かなかった。9世紀の前半、可汗の位をめぐる内紛が続き、疫病と大雪で家畜が多く死んだ。840年、北西のエニセイ川の流域にいたキルギスが、ウイグルの将軍の一人と結んで攻め込み、オルド・バリクを落とした(キルギスのウイグル打倒)。可汗は殺され、国は崩れた。

唐とウイグルの縁組は、その後も続いた。821年には唐の太和公主が可汗に嫁いでいる。840年に国が崩れたとき、公主はキルギスの手に落ち、唐へ送り返される途中でウイグルの残党に奪われるなど流転を重ねた末、843年にようやく長安に帰り着いた。
ウイグルの人々は散り散りになった。一部は南の唐の国境へ逃れ、一部は河西回廊の甘州に、一部は天山山脈の東のトルファン盆地に移った。唐ではその後まもなく、会昌の廃仏で仏教とともにマニ教も禁じられ、後ろ盾を失ったウイグル人のマニ教徒も追われた。

トルファンに移った人々は、高昌を都とする王国を開き、オアシスの農地を耕して定住した。遊牧の民が、オアシスの都市の民になったのである。やがて人々は仏教を深く信仰するようになり、ベゼクリクの石窟などに見事な壁画を残した。13世紀には、高昌のウイグル王はいち早くチンギス・ハンに従い、ウイグルの書記たちはモンゴル帝国の行政を支えた。
いまの新疆に暮らすウイグルの人々は、この名を受け継いでいる。ただ、その後イスラームを受け入れ、多くの民族と交わる長い歴史を経ており、古い可汗国とのつながりをどう捉えるかには議論がある。ウイグルという民族名が今の意味で広く使われるようになったのは、20世紀の前半のことである。